東京の日常を表現していたブログですが、最近は東洋医学、文化、文明などについて思ったことを書き連ねています。


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いま。

以前facebookに登録はしたけれど、なんだか、個人情報とかではなくて、世界がここまで簡単に繋がっていることが、恐ろしくてアカウントをすぐに消してしまったことがありました。
先ほど、また登録し直しましたが、またやっぱり同じ気持ちを抱いています。いつまた止めることになるかわかりません。なんだかなー。

「日本の歴史にはかつてなかった飽食と物の洪水の時代が、新しい人をつくったのだろう。」鶴見俊輔
現代の、資本主義や科学至上主義にかんする問題をもっとも端的に表しているのが、この言葉であると思ってやまない。ハックスリーの「すばらしい新世界」とか、池澤夏樹の「やがてヒトに与えられた時が満ちて……」など(池澤夏樹の「すばらしい新世界」もありますが)が描いたように、やはりこのままでは、人間はいずれ人間を必要としなくなり、なにもかも苦労なく手に入ってしまう時代になってしまうんだろうな、と思う。
現代だってそうでしょう。パソコンやテレビで、ほとんどの物が手に入ってしまう。もっと厳密に言えば、手に入った気になってしまう。パソコンやテレビはたんなる媒体であったのに、もはやそれは人間の体の一部、心の一部、脳の一部のようになっています。家庭に電気がなくなったとき、自分は何も手に入れていなかったと気づくはずなのですから。
医療においても同じ問題が言えます。熱が出る。異常だと思う。解熱剤が欲しい。解熱剤を飲んだって熱が下がるだけで風邪が治る訳じゃない。だからO-157事件みたいなことが起こるんです。簡単に説明すると、下痢が止まらないからといって下痢止めを医者が出したところ、菌が体の中から出て行かずに中毒を起こして子供が死んでしまったということです。体は自然に、菌を体から追い出す為に一旦体内の食べたものをすべて出しているのに。でも医者は今は、そんなことを教わらないみたいですね。症状に対して、薬。以上です。製薬会社が儲かるための不潔に働きあっているのでしょうけど、まぁ今回はこの話はおいておきましょう。
東洋医学の言葉で、標と本というものがあります。本、とは症状の元になっている五臓六腑の虚実(異常)を指し、標とは、そこから現れる種々の症状です。たとえば食中毒が本なら、腹痛や下痢が標ですね。腹痛や下痢を止めても、本である食中毒が治る訳ではありません。
でも現代では、みんな標を求めます。すぐに手に入るもの。これは東洋医学でも同じで、現代の漢方のお医者さんや鍼灸師も、疾患の体系を理解せずに症状に対して処方、治療することが圧倒的に多い。
キューバに行くと、経済的な豊かさと心の豊かさは別だということをみんな感じて帰ってくるそうです。
現代人がパソコンやテレビを通して求めているもの、それが画面を通して入ってくる。心の豊かさというよりも、満足やおもしろみの為に、人は求めます。でもそれはパソコンやテレビという、偽りの心の一部、言うならばメモリやハードディスクに残っただけであって、機械なしには何ももたらしてくれない。それがあって豊かでいられる訳はないし、人生における幸福があるとも思えない。(いやあるよというのなら、どうぞ。画面のなかだけで、それだけで終わってしまう人生なのでしょう。)
東洋医学の話に戻ると、標を治すことを標治、本を治すことが本治といいます。飽食と物の洪水により、世の中には標治があふれています。それを一生続ければ、たぶん人生における本当の幸せなんて目にすることがなくても、充分に充実した(と思える)人生を送ってしまえるのでしょう。
でもそれは、欲望にたいする風俗店のようなものでしょう。本当の愛をしっていたら、愛のないセックスがいかにむなしいものかしっているはずです。(いや私には、まだよくわからないことだらけです。)恋人や、人生をともに送る人なんかいなくて、ずっと風俗嬢にだけ、オンラインの顔の見えない相手だけに愛や友情を求める、そんな人生が楽しいのでしょうか。ハックスリーの小説にもありましたね。人工授精で完全に出産が管理されて、性と愛と繁殖が切り離されて、挙げ句の果てに胎生が野蛮だなんて言われるようになってしまう時代が。
だから言いたい。みんな見せかけの物を追いかけすぎていると。金なんて、物なんて、本当に人を幸せにしたことなんてない。満足している人はいるかもしれないが、それ以上に、金のせいで苦しんでいる人の方がよっぽど多いんだから。強大な力のために苦しんでいる人を、見捨てたくない。それを見捨てなかったのが、チェ・ゲバラであり、フィデル・カストロであり、ホセ・マルティでした。
話はfacebookでしたね。おもしろいという話を聞きます。確かにおもしろいでしょう。mixiとかほかのSNSにはまって生きている人もたくさんいますね。それだけ魅力のあることなのでしょう。でもそこで得られる繋がりは所詮その程度の物だということを、忘れずにいきたいですね。オンラインの友情は、ほんとうの友情、つまりあの、同じ目標を達成したとき、手をがっちりと握りあって感じるあの友情とは、違う。または、愛、あの、心のすべてが満たされて、他に何も考えることなどできずに、ただ抱きしめる、あの愛とは、完全に違うものです。
だから私も、このブログとかネットとかは、所詮マスターベーションに過ぎない、あるいは、風邪に対する咳止めに過ぎないと常に心に刻みながら、更新しているのであります。あるいは写真の美しさ、歌の響きを素直に受け止めていただくために。
最近パソコンに依存ぎみになっていたので、改めて考え直してみました。
最後まで読んでいただいた方は少ないだろうと思いますが、ご精読ありがとうございました。


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by s-a-udade | 2011-02-12 00:18 | 日常