東京の日常を表現していたブログですが、最近は東洋医学、文化、文明などについて思ったことを書き連ねています。


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世界の巨大なチラシの裏側 2 (毎日新聞の「無資格者が実技指導、生徒の腰悪化」報道の真相)

この記事この記事の続きです。


リンク  マッサージ:無資格者が実技指導、生徒の腰悪化 都内(毎日新聞社)
私の学校について、毎日新聞からこんな記事が出た。この事件に関しては行政側の調査や処分については完全に終了していて、だから15日の立ち入り調査というのは全く別件についての話であるから、この部分に関しては事実と反する。
ただし事件の概要について、決して間違ったことを書いている訳ではない。ただし事件はもっと複雑だし、簡単に片付けられる問題ではなかったのだ。ただし事件の詳細は、このブログの記事とは関係ないので割愛させていただく。

まず、教員資格がない人間が指導を行っていたという点に非難が集中するだろう。むろん、指導していた人間は「あんまマッサージ指圧師」の免許は持っていたが、「教員資格」がなかったという話である。この記事を読む限りは両者の区別がはっきりしていないので、まずその点を注意していただきたい。教員の資格がないのは「講師」として学校に採用されている。
この「教員資格」とうのはどういうものなのか。鍼灸学校は一般に三年制である。三年の修業の上に、国が実施する国家試験に通れば晴れてはり師、きゅう師、あんまマッサージ指圧師の免許を得ることができる。(国家試験には実技試験はふくまれていない。)国家試験合格後、さらに教員養成科において二年間の修業をすれば、鍼灸学校において教壇に立つ資格が与えられる。これが教員資格だ。
制度上、言ってしまえば、鍼灸専門学校三年間プラス教員養成科二年間の計五年間で、教員資格が得られるのである。たとえば十八歳で高校を卒業し、その後五年経った二十三歳で実際に鍼灸専門学校で教壇に立って実技指導ができる訳だ。金と時間さえ費やせば人を治した経験がなくたって「実技」を教えることができる。
専門学校在学中は無資格なので、言うまでもなく臨床に携わることができないから、教員養成科の二年間でしか実際の治療というのはできない。しかも学業の傍らに治療するのだから十分な臨床経験が積めるとも言い難いだろう。しかし制度上は、実技指導ができるのである。
しかし伝統医療においていや医療に限らず職人などの世界では、伝承というものは、普通、二三十年は経験を積んだ師匠から技を受け継ぐものであり、決して理論だけを頭に入れた評論家から受け継ぐものではない。
この学校は、そういう意味において、本当の技術を教える学校であったから、経験豊富な臨床家を講師に招いて実技指導にあたらせていた。ベテランの臨床家というのは技を身につけるのに必死であるから、教員養成科なんかに行っている場合ではない。

田村隆一は『教養』において、こんなことを書いている。
教養、つまりcultureには、「耕す」という意味があるんだ。時間がかかるんだよ、教養は。五、六年で教養人なんて、みんなニセ者だよ。そんなやつらの話は信用しちゃいけない。全部受け売りさ。本当の教養人とは、いろんな訓練をうけたスペシャリストのことなんだ。昔の職人の世界は、その典型だな。
そして岡本太郎は、『東大幼稚園の母親たちーー教育制度』においてこう書いた。
まことに馬鹿馬鹿しいのは、今の大学での勉強が実社会にはほとんど役に立たないことだ。(中略ー引用者)国として、個人として、無駄なエネルギーと時間だ。お義理の勉強で、ただ卒業証書、つまり社会的身分を買うだけの話である。
(中略ー引用者)
受験勉強など一度パスすれば忘れてしまう。誰でもの経験だ。あれはただの暗記であり、極端に言えばオウムの人真似。頭のよさや、能力、まして人間的本質とは何の関係もない。
自分にとって非本質的なことを憶えるというのは、屈辱的だ。俗なことだ。コマッチャクレた凡庸さがなければならない。試験する方にいわせれば、誰だってやるのだから、そんな一応の線も越えられないのは、よほどの天才か馬鹿だというわけだろうか。


鍼灸師を育てるために、それなりの医学的知識が必要だということは理解できる。しかしまた、それを教えられるだけの人材を育てるシステムのために、実技教育までもが頭の中の世界になってしまうというのは、伝承医学という観点から見れば本末転倒だろう。
毎日新聞の記事も、「無資格者が実技指導」という見出しを大きく打って報道している。この「無資格」という言葉の裏に隠された伝承医学の意味を本当にこの記事を書いた記者(佐々木洋さん)が理解しているとは、到底思えない。この「資格」こそが意味をなしていないのだから。意味をなしていないどころか、これは鍼灸を破滅させる制度でしかない。
なんでもかんでもこの制度に当てはめてしまうことが問題だと、私は思うのだ。この場合、知識を持った鍼灸師を育てることが、教員養成の「目的」だろう。しかし実技に関しては何も問われない試験をパスした人しか実技指導を行えないという「制度」。そして制度から外れているものを排除する行政。さらに制度イコール正という前提を元に記事を書く新聞記者。だいたい新聞も一定の目的のために発行されるのだから、そして記者は一定の目的のために記事を書くのだから、その目的を含んだ視点から離れて記事を書くことは難しい。主観をすてて記事は書けない。そういう意味では新聞だって大きなチラシの裏側に過ぎないのかもしれない。
制度から外れるならなんでも悪だというのなら交番に併設して裁判所でも作ればいい。たとえば、未成年者の飲酒にしろ、それが悪いことだという理由はあるのだろうか。フランスでは十六歳でも飲酒できて、日本ではいけない。悪いことだと言われる。しかし二つの国の違いというのは、法律でしかない。そしてその法律というのは、「未成年者の飲酒が健康に悪影響を及ぼす恐れがあるから」という理由からであり、決して殺人のように、倫理や秩序を理由に作られたものではない。

この目的と制度の逆転、そして制度から生み出される価値観のアンバランスが今回の「事件」を生んだと思える。制度がなんと規定していようと、本質は別にある。本質は、解説書にも新聞記事にも法律の条文にもない。本質は、この場合、学校で必死に勉強する生徒や伝承しようとする先生のあいだにあるのだ。

本質を見なければいけない。これはfacebookの一連の話にも関わることだ。幻影の幸せで満足してはいけないのと同じように、たんなる法律の条文のために将来のある学生が学ぶ機会が奪われてはならない。
日本でこんなことがある一方で、海外では盛んに鍼灸が取り入れられているし、研究にも多額の資金が出されている。ひとえに医療をよくするためだ。鍼は人件費と道具以外にほとんど費用の掛からない医学であるから、エビデンスさえ存在すれば積極的に取り入れられる。一方で日本では現代医療のあとにくる二番目の選択肢にすぎない。
しかし本当の目的は、病気を治すと言うことだ。これが本質。だから積極的に政府が東洋医学を取り入れている諸外国の方が患者が満足するだろう。ドイツなどがその典型だ。

私が今回の事件で学んだのは本質をみるということだ。本来の目的、本当の原因。前に述べた標と本でいえば、本を理解するということ。そして本質が伴っていれば、成功への道は開けるということだ。コンピュータの黎明期からその可能性を信じて進み続けた孫正義やビル・ゲイツ、ビジネスの本質を見抜いた柳井正、がそうであったように。
今のエジプトの「革命」を見ていても、同じことが言えると思う。このことはあまり勉強していないから多くは話せないが、でも「革命」は周辺諸国にまで波及している。「民主化」という大きな目標が掲げられているけれども、民主化は政治や生活をよくするための手段であって目的ではない。ただ「民主化」という大義名分だけをアテにした第二、第三の「革命」であるならば、たとえ民主化が達成されたとしてもその将来は暗い。
ちょうど日本の民主党が「政権交代」という大義を掲げて、国民もそれにつられて政権を選んだが今の現実があるように。政権交代という手段だけみていても、何のための政権交代なのか、その本来の目的の為にどういったアプローチができるのか、という本質がしっかり整っていなければ、成功しない。
facebookは確かに便利なツールだ。旅先で出会った人とも、連絡を取り合うことができる。だけど、SNSによる幻影の幸せに依存してはならない。ネットワークによる自己陶酔に浸ってはならない。便利な情報交換の道具ではあるけれど、それに依存して、実際の相手の顔を見て行う会話と同一視してはならない。コミュニケーションの本質というのは別にあり、本質のないものに依存してしまっては、間違った方向に進んでしまうだろうから。たとえばyoutubeの動画にコメントをつけるなら、それは友達にCDを貸して、これいいよ、聴きなよ、程度の意識にとどめておく。あらゆる感情をオンラインで発信してしまうと、自分の感情を放っておけずに常に発散しなくてはならなくなってしまうだろう。
facebookがこれほどまで大きくなったが、本質を欠いている以上、今後なんらかのトラブルに巻き込まれるか何かで衰退の一途を辿るだろう。エジプトの「革命」においては良い役割を果たしたかもしれないが、今後まだ肥大化するであろうこの会社がもっと大きな問題を抱えたとき、果たしてそれに太刀打ちできるだけの方向性を持っている会社なのかどうかを問いたい。

本質について話してきたが、本質は決して真理ではない。同様に本質というのは科学的根拠でもない。なぜなら科学というのは、常に未来の新しい科学によって否定される可能性を持っているからであり、解説が伴うからである。解説には視座が必要だ。しかし「エゴセントリック・プリディカメント」というものがある。鶴見俊輔によれば、「誰も、自分中心の視座から世界を見る状況からはなれることはむずかしい」という意味だそうだ。これでは本質を理解する根底の本質が揺らいでしまう。
本来の目的、原因と実際の過程や現状を正しく見極め理解し、また自分も正しい本質を伴う行動をすること。それが今回の事件から学んだことだ。どこが根でどこが幹で、どこが枝でどこが葉なのか、またその木はどこに生えているのか。本質を見極める目を持つことが求められている。これから日本は衰退する。間違いなく衰退する。しかし本質を把握できる目さえあれば、乗り越えられるのではないかと、私は思う。そして、その目をもって国が動かされるのであれば、日本と、日本人の心はふたたび豊かさを取り戻せるだろう。
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by s-a-udade | 2011-02-16 16:49 | 日常