東京の日常を表現していたブログですが、最近は東洋医学、文化、文明などについて思ったことを書き連ねています。
by s-a-udade
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21世紀人類滅亡論
こんなタイトルだと、荒木が新しい宗教にでもはまったのではないかと思われそうですが、私は至って正気で、(宗教が狂気だとは思いませんが)真面目に人類の末路について考えているのです。
今日のブログは、とあるジャーナリストの先生とのメールの中で生まれたものです。私が送った二通のメールに先生との共通の認識を多少加味し、この文章ができあがりました。
最近恐ろしい文章を読みました。石原慎太郎さんと瀬戸内寂聴先生の往復随筆の中で石原氏が言及していたことなのですが、以下に引用します。
「
ある出版社が、理科系文科系を問わず内外の各種の専門家たち、それも千人を超える対象に、このままでいくと人間は後何年ほど生きていくことが出来ると思うかというアンケートを試みた、その結果でした。圧倒的な数、確か八五パーセントを超す人たちが、せいぜい六、七十年くらいだろうと答えていました。
(中略)
物理学者ホーキングの東京での講演を聞いたことがあります。
(中略)
講演の最後質問が許され、ある人が、この宇宙にこの地球並みに文明の発達している惑星が幾つくらいあると思うかと質し、彼は即座に、太陽系に限らず、この地球から視認し得る宇宙全体ではおよそ二〇〇万くらいだろうと答えました。皆その数の多さにびっくりしました。
次いで誰かが、そんなに多くの数の文明の進んだ惑星がありながら、映画や小説では目にする宇宙人や宇宙船を我々が実際目にすることがないのはどうしてかと質問した。そしたら彼がまた即座に、この地球程度にまで文明が発達した惑星はその時点で、自らの文明のもたらす悪しき影響のせいで極めて不安定なものになり、宇宙全体の時間との相対で、ほとんど瞬間的に滅びてしまうのだと答えました。
」(石原慎太郎、瀬戸内寂聴『人生への恋文』2003年10月、世界文化社)
このアンケートの結果というのは、私の見解とほとんど一致するんですね。私もひそかに、22世紀は来ない、と思っていたもので、さらに21世紀人類滅亡説、と心の中で呼んでいたものですから驚きつつもやっぱりそうか、と思ったのです。人類の文明が及ぼす悪しき影響についてはもはや説明の必要もないと思いますが、このあまりに高密度、高回転で便利すぎる社会というのは人類に堕落をしかもたらさないし、慣性によってのみ日々「進歩」しつづける現代社会も結局は自分の未来を犠牲にしてしか成り立たないのだろうと思います。
そこで賢治の作品を見ていたら
「曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い」(農民芸術概論要綱)
また、
「あらゆる自然の力を用い尽すことから一足進んで
諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ」(生徒諸君に寄せる)
とありました。
人間もやはり自然の一部であり、自然に回帰しあらゆる生命と同等なものとして生きるほかないのではないか、そして自然への回帰という点で、東洋医学や東洋哲学はそれが可能な世界なのではないか、と思ったのです。そういえば最近パーマカルチャーについて書かれた池澤夏樹さんの『光の指で触れよ』を読みましたが、パーマカルチャーというのは私の中では一つの理想像です。
高校生の頃、人間とて、ただ脳が発達しただけの生き物の一つの種類でしかない、それはことごとくムダを排除したミミズとなにも変わらない。いつか人間の亡き後に、人間を凌駕する知能を持った生物が生まれたときに、人間は欲望のために自分の足を喰った馬鹿な動物だと言われるときが来るのではないかと、SFまがいの小説を書いたことがありました。書き上げられずに、恥ずかしくて処分したのですが・・・。
今、私は、日本のエネルギー政策をこの時点で大きく転換させることができなければ、人類を救うことはできないだろう。人類は自らの偽りの快適さと利害の為に自然と未来を食い物にし続けるだろうと考え始めています。
この原発問題、日本の危機に、人類が本当に必要なことは何なのかに気づかなければいけないのだと思います。ベートーベンも「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」と言ったけれど、この日本の危機は人間本来の生きる目的や幸せとは何かとか、肥大化する現代社会の問題点を大いに考えるべき時ではないかと思うのです。
あるクラスメートはあと10年で世界経済が崩壊し、混乱の時代が来ると言いました。あまりに本質からかけ離れた経済本位、その犠牲は途上国の貧困層だけでなく将来のわたしたちなのですね。無意味に肥大化した経済の、ひとつの歯車のひずみが全体を揺るがすという事実は、先日のアメリカ合衆国の債権問題で明るみに出てしまった。無理を重ねてなんとかこじつけで誤魔化してきた経済というものも、近い将来にそのしわ寄せを受けなければならないのです。
でも、評論家などと言われる人達は、きっと崩壊する経済を見ても、物事を多角的に大きな視点で捉えることができないから、目先の理由だけで物事を言うに違いない。経済そのものの破綻というのが、たぶん専門家にはわかっていない。
先日、アップルのCEOだったスティーヴ・ジョブズ氏が亡くなりました。私の父はコンピューター好きだったので、私は幼稚園の頃からアップルの製品に触れていただけに、非常にショックを受けています。彼が世に送り出したものはつねに革新的で芸術的でした。
日々、我々の周りは進歩し続け、便利になっていますが、本当に便利は人を幸せにしたのでしょうか。原発なんかを作って安定的に大量の電気を作る必要は本当にあったのでしょうか。
あらゆる便利なものというのは、なければないで幸せにいられるのに、一度世に出てしまうと、ないと不幸になるというジレンマを含んでいるように思います。電気なんて、常に停電が当たり前な社会なら上手く付き合っていけると思います。
でも社会というのは後戻りできない。私は別に後戻りをして産業革命以前の世界を再現しようといっているのではなく、人類が欲望の愚かさに気づき世界のために生きていける社会を築こうという、壮大だけれども、そんな野心を抱いているのです。
生きていくために本当に必要なもの、そして自分や人類の幸せのために生きる。
便利は人を堕落させるだけだ、ということが人類の常識になる世界を夢見ています。
もうこのままでは、人類の世界の終焉は目に見えています。でも、まだ手の施しようはあると、私は信じたい。もうどうにもならないと、断言したくはないのです。
鍼灸が世界を救う、と言いたいけれど、さすがにそれは暴論です。
もし、滅亡の道を歩むとしたら。
経済崩壊の後に、おそらく長い混乱の時代が来ます。決して安泰に人間が滅びる訳ではない。日々壊れていく社会の中で、権力と武力を持った者だけが生き残る弱肉強食の世界があるでしょう。限られた資源を奪い合い、自分だけが生きながらえようとする欲望にまみれた人間が世界を食い物にする。世界が再び核の脅威に怯えなければいけない日が来るはずです。
そして、一方で死を目前に、一人一人にとって幸せが何なのか、無力な民衆は考えるでしょう。
人を幸せにする為の宗教が、いま戦争の原因となっている事実が、宗教の破綻を示しているのでしょう。神というのは自分の存在理由ですね。神のために生きることは自分のために生きるこのに等しいのかもしれない。聖戦なんて言っているけどやはりエゴに他ならないのでしょう。そんなことを言えるのも私が蚊帳の外にいるからかもしれませんけれど。
でも何かに縋らずに生きていくことは難しい。完全な絶望の中で人間の心を救うのは、超自然的な力によらない思想なのかもしれません。
その時、もはや世界の平和を望むことはできない。可能なのは、個人の心の平和です。
その時こそ東洋の思想が、人類に希望を与えるときが来るでしょう。
今日のブログは、とあるジャーナリストの先生とのメールの中で生まれたものです。私が送った二通のメールに先生との共通の認識を多少加味し、この文章ができあがりました。
最近恐ろしい文章を読みました。石原慎太郎さんと瀬戸内寂聴先生の往復随筆の中で石原氏が言及していたことなのですが、以下に引用します。
「
ある出版社が、理科系文科系を問わず内外の各種の専門家たち、それも千人を超える対象に、このままでいくと人間は後何年ほど生きていくことが出来ると思うかというアンケートを試みた、その結果でした。圧倒的な数、確か八五パーセントを超す人たちが、せいぜい六、七十年くらいだろうと答えていました。
(中略)
物理学者ホーキングの東京での講演を聞いたことがあります。
(中略)
講演の最後質問が許され、ある人が、この宇宙にこの地球並みに文明の発達している惑星が幾つくらいあると思うかと質し、彼は即座に、太陽系に限らず、この地球から視認し得る宇宙全体ではおよそ二〇〇万くらいだろうと答えました。皆その数の多さにびっくりしました。
次いで誰かが、そんなに多くの数の文明の進んだ惑星がありながら、映画や小説では目にする宇宙人や宇宙船を我々が実際目にすることがないのはどうしてかと質問した。そしたら彼がまた即座に、この地球程度にまで文明が発達した惑星はその時点で、自らの文明のもたらす悪しき影響のせいで極めて不安定なものになり、宇宙全体の時間との相対で、ほとんど瞬間的に滅びてしまうのだと答えました。
」(石原慎太郎、瀬戸内寂聴『人生への恋文』2003年10月、世界文化社)
このアンケートの結果というのは、私の見解とほとんど一致するんですね。私もひそかに、22世紀は来ない、と思っていたもので、さらに21世紀人類滅亡説、と心の中で呼んでいたものですから驚きつつもやっぱりそうか、と思ったのです。人類の文明が及ぼす悪しき影響についてはもはや説明の必要もないと思いますが、このあまりに高密度、高回転で便利すぎる社会というのは人類に堕落をしかもたらさないし、慣性によってのみ日々「進歩」しつづける現代社会も結局は自分の未来を犠牲にしてしか成り立たないのだろうと思います。
そこで賢治の作品を見ていたら
「曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い」(農民芸術概論要綱)
また、
「あらゆる自然の力を用い尽すことから一足進んで
諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ」(生徒諸君に寄せる)
とありました。
人間もやはり自然の一部であり、自然に回帰しあらゆる生命と同等なものとして生きるほかないのではないか、そして自然への回帰という点で、東洋医学や東洋哲学はそれが可能な世界なのではないか、と思ったのです。そういえば最近パーマカルチャーについて書かれた池澤夏樹さんの『光の指で触れよ』を読みましたが、パーマカルチャーというのは私の中では一つの理想像です。
高校生の頃、人間とて、ただ脳が発達しただけの生き物の一つの種類でしかない、それはことごとくムダを排除したミミズとなにも変わらない。いつか人間の亡き後に、人間を凌駕する知能を持った生物が生まれたときに、人間は欲望のために自分の足を喰った馬鹿な動物だと言われるときが来るのではないかと、SFまがいの小説を書いたことがありました。書き上げられずに、恥ずかしくて処分したのですが・・・。
今、私は、日本のエネルギー政策をこの時点で大きく転換させることができなければ、人類を救うことはできないだろう。人類は自らの偽りの快適さと利害の為に自然と未来を食い物にし続けるだろうと考え始めています。
この原発問題、日本の危機に、人類が本当に必要なことは何なのかに気づかなければいけないのだと思います。ベートーベンも「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」と言ったけれど、この日本の危機は人間本来の生きる目的や幸せとは何かとか、肥大化する現代社会の問題点を大いに考えるべき時ではないかと思うのです。
あるクラスメートはあと10年で世界経済が崩壊し、混乱の時代が来ると言いました。あまりに本質からかけ離れた経済本位、その犠牲は途上国の貧困層だけでなく将来のわたしたちなのですね。無意味に肥大化した経済の、ひとつの歯車のひずみが全体を揺るがすという事実は、先日のアメリカ合衆国の債権問題で明るみに出てしまった。無理を重ねてなんとかこじつけで誤魔化してきた経済というものも、近い将来にそのしわ寄せを受けなければならないのです。
でも、評論家などと言われる人達は、きっと崩壊する経済を見ても、物事を多角的に大きな視点で捉えることができないから、目先の理由だけで物事を言うに違いない。経済そのものの破綻というのが、たぶん専門家にはわかっていない。
先日、アップルのCEOだったスティーヴ・ジョブズ氏が亡くなりました。私の父はコンピューター好きだったので、私は幼稚園の頃からアップルの製品に触れていただけに、非常にショックを受けています。彼が世に送り出したものはつねに革新的で芸術的でした。
日々、我々の周りは進歩し続け、便利になっていますが、本当に便利は人を幸せにしたのでしょうか。原発なんかを作って安定的に大量の電気を作る必要は本当にあったのでしょうか。
あらゆる便利なものというのは、なければないで幸せにいられるのに、一度世に出てしまうと、ないと不幸になるというジレンマを含んでいるように思います。電気なんて、常に停電が当たり前な社会なら上手く付き合っていけると思います。
でも社会というのは後戻りできない。私は別に後戻りをして産業革命以前の世界を再現しようといっているのではなく、人類が欲望の愚かさに気づき世界のために生きていける社会を築こうという、壮大だけれども、そんな野心を抱いているのです。
生きていくために本当に必要なもの、そして自分や人類の幸せのために生きる。
便利は人を堕落させるだけだ、ということが人類の常識になる世界を夢見ています。
もうこのままでは、人類の世界の終焉は目に見えています。でも、まだ手の施しようはあると、私は信じたい。もうどうにもならないと、断言したくはないのです。
鍼灸が世界を救う、と言いたいけれど、さすがにそれは暴論です。
もし、滅亡の道を歩むとしたら。
経済崩壊の後に、おそらく長い混乱の時代が来ます。決して安泰に人間が滅びる訳ではない。日々壊れていく社会の中で、権力と武力を持った者だけが生き残る弱肉強食の世界があるでしょう。限られた資源を奪い合い、自分だけが生きながらえようとする欲望にまみれた人間が世界を食い物にする。世界が再び核の脅威に怯えなければいけない日が来るはずです。
そして、一方で死を目前に、一人一人にとって幸せが何なのか、無力な民衆は考えるでしょう。
人を幸せにする為の宗教が、いま戦争の原因となっている事実が、宗教の破綻を示しているのでしょう。神というのは自分の存在理由ですね。神のために生きることは自分のために生きるこのに等しいのかもしれない。聖戦なんて言っているけどやはりエゴに他ならないのでしょう。そんなことを言えるのも私が蚊帳の外にいるからかもしれませんけれど。
でも何かに縋らずに生きていくことは難しい。完全な絶望の中で人間の心を救うのは、超自然的な力によらない思想なのかもしれません。
その時、もはや世界の平和を望むことはできない。可能なのは、個人の心の平和です。
その時こそ東洋の思想が、人類に希望を与えるときが来るでしょう。
by s-a-udade
| 2011-10-10 23:18
| 日常