東京の日常を表現していたブログですが、最近は東洋医学、文化、文明などについて思ったことを書き連ねています。


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カテゴリ:日常( 39 )

世界の巨大なチラシの裏側(facebookをちょっと使ってみて思うこと)

子供の頃、チラシの裏に落書きするのが好きだった。とは言っても絵を描くのが全くの苦手なので、勝手な言葉ばかりかいていた記憶がある。

中学校に入ってギターを始めた。心のわだかまりはギターで発散した。下手くそだったけど、叫ぶように歌った。高校に入ってもギターを弾き続けた。ギタリストになりたかった。そのためにNYにまで行った。
あの頃、暇さえあればギターばかり弾いていた。それだけ発散できていたんだろう。あらゆる物は自分の中だけでほとんど解決していたから、精神的に自立できていたんだとおもう。
小説を書き始めたのもその頃だった。書きたいことはたくさんあった。書きたい、という意欲だけが空回りして、ろくに書き上げられなかったし、内容だって文章だって稚拙だった。それでも、書いた。たまに書き上げては、文芸雑誌の新人賞に応募した。一次選考すら通らなかったけれど、それでよかった。
友達なんていなかった。高校に入って一年間は、思春期で家族とも話さなかったが、友達と話すことなんてそれよりも少なかった。一言も喋らずに家路につくことなんて珍しくもなかった。
それでも精神衛生的に無事でいられたのは、音楽や文学があったからだろう。
今ではその二つに加えて、写真や短歌などの芸術で自己表現に励んでいる。つい最近まで、発表の場は写真展とか、歌会とか、その程度の物だった。気軽に第三者が見られるものではなくて、同じ趣味の仲間同士、あるいはごく近しい間の人間関係だけでほとんど完結してしまうものだった。表現する自分と、鑑賞する相手と、それぞれの顔が見えた。それは一対一のコミュニケーションであって、決して自分中心の視座から放射状に無差別的に投げられたものではなかった。

『アサッテの人』で芥川賞を受賞した諏訪哲史氏は、三年前に行われた「文學界」誌上の座談会で、こう発言している。
五十年の間に、日本では近代文学が死んだなんて言われ(中略ー引用者)、少なくとも日本においては、二〇〇八年現在、ちょっと暴論かもしれませんが、「読者」が死んでしまったんじゃないかという気持ちが僕にはあります。
(中略ー引用者)
僕が最後に考えたのは、この先、自分だけが読みたい小説を万人が自分自身の手で書いていくという時代……「国民総オナニズム時代」が来るかもしれない、ということです。(中略ー引用者)自分が書いたものしか読みたくない、自分が書いている現在がこの世でもっとも快い読書時間だという自慰の時代ですね。この書くことが即読むことであるという事態は、一人カラオケに酷似していると思います。歌う(書く)イコール聴く(読む)というある種の自己陶酔で、もう起きてることなんじゃないでしょうか。
作家が作家たりうるのは、こうした書くことの恍惚から距離をとって、自分の手で書かれたものに対して別個の醒めた目でそれを読み返して、自己批評、自己批判することができるからだと思うんです。


ブログを始めとする個人主体のメディア、あるいはSNSによって相互発信されている情報膨大な数のメッセージの多くが、「かけがえのない私がここにいるって、光を発したいんですよ(上原隆『雨の日と月曜日は』)」。そんなことを語っているように見える
あるいはそこから発信されている情報ーー発信している本人は、それらを芸術と呼ぶかもしれないーーは、自分の作品、思い、あるいは自分自身の価値を誰かに認めて貰うために、発しているようにも見える。

三浦雅士は『批評、または私という現象』でこう書いている。
「思考の起点を自己におくのは、したがって一つの転倒である。むろん人間は転倒から考えはじめるほかない存在であるといえるだろう。しかい、自己を自己として意識すること自体、すなわち自己という現象を生きること自体がそのまま社会的なことであるという事実を忘れてはならない」

その先にある、SNSにおける人間関係を適切に分析しているのが小池龍之介だ。『考えない練習』にこう書いている。
「コメントを書いてくれているかすぐわかるので、誰かに確実に見てもらえていて、受け入れられている、幸せだ、という幻影を味わうことができます。そのため、SNSに参加する人の数は、ほんの一、二年の間に爆発的に増大しました。
しかし、それを得るためには、自分も友達の日記を読んで、コメントを返さなくてはいけないという暗黙裡の交換条件がつきます。
登録友達の数が増えれば、何となく友達が増えたような錯覚に陥りますが、その数が多ければ多いほど、自分の負担も増えることになります。
自分も日記をつけないといけない、さらに誰かの日記をきちんと読んでコメントをつけなくてはいけない。しかも、相手の書いていることが、自分に全く興味のないことでも、「興味がない」という本音は書けないので自分の気持ちに嘘をつくはめになり(後略ー引用者)」


そうやって近年発達しているそれらのツールを使ったとしても、そこから得られる幸せを小池氏は「幻影」だと言い切りました。単に自分の幸せを(しかしそれは幻影だが)味わうためにほめられているにすぎないのだから。
歌会に行くと、歌については鋭い指摘がなされます。そうして上達するものです。あるいは私は喫茶店で写真展を開くので、一般のお客さんも来ますが、いい写真にはそういった方からもお褒めの言葉をいただきますし、反応を見ていると、写真に対しての興味や感想をうかがい知ることができます。そういう状況の中で笑顔でお褒めの言葉をいただいたときというのは、この上ない幸せです。
でもネットで発表したからといって、必ずしも本当の感想が得られる訳ではない。諏訪氏のいう一人カラオケに似た恍惚プラス、他人からの評価による幸せ(しかし幻影です)。だから一時的な幸福しか得られない。写真や何かを発表したところで、腕が上がる訳でもなんでもないのです。
これは前に述べた標と本の話に繋がります。東洋医学の疾病観からみれば、標を治したところで、本を治さなければ、また同じ症状が起こります。同様に、ネット上でも、褒められても褒められ続けなければ満足することはないでしょう。肩たたきしたって、一週間後にはもう戻っているのと一緒です。

真木悠介『自我の起源』にはこう書いてあります。
「個体を自己目的として立ててみるかぎり、その生きることの『目的』はただ歓喜を経験することにある。そしてこの歓喜のすべては、同種や異種の他者たちの性や生殖の道具とし対象としメディアとし自己を放下することにしかないことをみてきた。性がそうであり、ジャンヌ・ダルクがそうでり、マザー・テレサがそうであり、<花の下にて春死なむ>という自己肥料化がそうである」

ただ自分を喜ばせるために、人は自分を発信するのでしょう。そうして自己陶酔を得ます。
ありがたいことに(そうにちがいない)、現代のこの飽食の世界には、自分を喜ばせてくれるツールが、一生かけても足りないくらい存在しています。だからずっと、目の前の喜びだけを追い続けていたら、それだけで充実したまま人生を終えることができるのでしょう。
でも、たとえば肩こりの原因がストレス、姿勢、荷物、その他にたくさんあるだろうけどそれら原因を特定させずに、ずっと肩たたきマシンみたいなもので肩こりをとり続けているような人生ってどうなんでしょう。
本質を見なければいけない。本質は、あるいは本音は、SNSにも、ブログにも、個人のホームページにもない。本質は、いま、ここ、にある。人間と人間が互いの顔を見てコミュニケーションする、そこに存在するのだ。


私もいずれこのブログをやめようと思う。でもここでやめてしまったら、このますますオンライン化していく社会に対する戦いも、途中で終わってしまうことになる。ある程度の成果を残すまで、このブログは続けます。写真や短歌はそのためのつなぎであって、読者を釣るえさでもあります。きっと。
人間の生き方を変える革命家になりたい。ゲバラは生き方の模範だったんだ。

長くなりましたが、読んでいただいてありがとうございました。
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by s-a-udade | 2011-02-16 01:14 | 日常

喫茶店日和

テスト前なのに勉強せず、喫茶店に入り浸っていました。

新宿に喫茶店はいっぱいあるけれど、ちゃんとした豆を扱っている喫茶店っていうのはなかなかない。私が知る限りでは東口の一店舗のみだ。新宿駅近くでは・・・・。
父の命によりその店の豆を買って帰ったので、自宅でもいれてみるとやっぱりちがう。挽いている段階から香りが全然ちがうんだもの。味も格別だ。焙煎したての豆だと、淹れはじめは炭酸ガスがたくさん出るので新鮮な豆というのは一目でわかる。ちなみにその店の「当日焙煎証明書」には「珈琲豆は生鮮食料品です」と書かれている。さすがだ。
百貨店なんかに出店している店でも、搬送用の袋に詰められた豆をガサッと出しているところを見てしまうともう買う気にはなれない。喫茶店だって、焙煎してから相当たった豆を平気で淹れている店もたくさんある。

その店に出入りし始めて三年、まだそれを超える味と香りの珈琲には出会ったことがない。
そんなわけで、全国の喫茶店店主のみなさん、うちの豆が日本一だと言い切れるのならば是非荒木までご一報ください。
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by s-a-udade | 2011-02-15 17:41 | 日常

外は雪です。都心はどうなのかは知りませんが、こっちは積もっています。
みぞれみたいな雨だと思っていたら、雪っぽいみぞれになっていて、気づいたら積もっていた。
家についた頃にはもう暗くなっていたから写真はあまり撮れなかったけれど。
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by s-a-udade | 2011-02-14 20:02 | 日常

テスト前です。

テスト前なのに、勉強がはかどりません。焦りが足りないのでしょうか、まぁいいでしょう。
テスト前に新しいパソコンやフォトショを入手したのがいけなかった。
でもそれらだけでなく、ギターを弾いてみたり、ピアノを弾いてみたりしています。ピアノなんて弾いたのいつ以来だろうか。子供の頃にピアノを習っていたとかではなくて、高校の頃に独学で始めました。弾き語りくらいしかできないんですけどね。うん。

テスト前になるとコーヒーの消費量が増える。著しく。
そういえば新宿の某有名(?)喫茶店の店主が、コーヒーの味は九割が豆で決まる、淹れ方なんて十パーセントくらいしか変わらないと仰っていました。そこの店は当日焙煎の新鮮な豆にこだわっているお店です。すてきなお店です。でも買ってずいぶん経ってしまった豆で淹れたコーヒーを飲んでいる今の私は、味のわからない奴なのでしょう、きっと。
その喫茶店の近くにあるコーヒー器具の専門店でサイフォンを眺めていたら、店のご主人が出てきて、彼は「サイフォンは見た目です!」と仰いました。うーん、見た目か。
見た目が一番気に入ったサイフォンは、そこそこのレンズが買えてしまいそうなくらいの値段だったので、私にはサイフォンは無理だと思って諦めて帰ったのであります。


ピアノで何を弾き語りしていたかというと、U2のOriginal Of The Speciesです。
Baby slow down
The end is not as fun as the start
Please stay a child somewhere in your heart

I'll give you everything you want
Except the thing that you want
You are the first one of your kind

And you feel like no-one before
You steal right under my door
I kneel 'cause I want you some more
I want the lot of what you got
And I want nothing that you're not

Everywhere you go you shout it
You don't have to be shy about it

Some things you shouldn't get too good at
Like smiling, crying and celerity
Some people got way too much confidence baby..baby

I'll give you everything you want
Except the thing that you want
You are the first one of your kind

And you feel like no-one before
You steal right under my door
I kneel 'cause I want you some more
I want the lot of what you got
And I want nothing that you're not

Everywhere you go you shout it
You don't have to be shy about it, no....
Sugar come on, show your soul
You've been keeping your love under control

Everywhere you go you shout it
You don't have to be shy about it
Everywhere you go you shout goodbye
Oh my my

And you feel like no-one before
You steal right under my door
I kneel 'cause I want you some more
I want you some more, I want you some more...
Oh no.....


この動画、前にも張ったことありましたね。うん。私はいま、この歌を一人の人に聴いてほしいです、自分で作った歌でもないのに厚かましいですかそうですか。
このブログを見ていたら聴いてみてください、ね、18歳のあなたへ。
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by s-a-udade | 2011-02-13 15:40 | 日常

いま。

以前facebookに登録はしたけれど、なんだか、個人情報とかではなくて、世界がここまで簡単に繋がっていることが、恐ろしくてアカウントをすぐに消してしまったことがありました。
先ほど、また登録し直しましたが、またやっぱり同じ気持ちを抱いています。いつまた止めることになるかわかりません。なんだかなー。

「日本の歴史にはかつてなかった飽食と物の洪水の時代が、新しい人をつくったのだろう。」鶴見俊輔
現代の、資本主義や科学至上主義にかんする問題をもっとも端的に表しているのが、この言葉であると思ってやまない。ハックスリーの「すばらしい新世界」とか、池澤夏樹の「やがてヒトに与えられた時が満ちて……」など(池澤夏樹の「すばらしい新世界」もありますが)が描いたように、やはりこのままでは、人間はいずれ人間を必要としなくなり、なにもかも苦労なく手に入ってしまう時代になってしまうんだろうな、と思う。
現代だってそうでしょう。パソコンやテレビで、ほとんどの物が手に入ってしまう。もっと厳密に言えば、手に入った気になってしまう。パソコンやテレビはたんなる媒体であったのに、もはやそれは人間の体の一部、心の一部、脳の一部のようになっています。家庭に電気がなくなったとき、自分は何も手に入れていなかったと気づくはずなのですから。
医療においても同じ問題が言えます。熱が出る。異常だと思う。解熱剤が欲しい。解熱剤を飲んだって熱が下がるだけで風邪が治る訳じゃない。だからO-157事件みたいなことが起こるんです。簡単に説明すると、下痢が止まらないからといって下痢止めを医者が出したところ、菌が体の中から出て行かずに中毒を起こして子供が死んでしまったということです。体は自然に、菌を体から追い出す為に一旦体内の食べたものをすべて出しているのに。でも医者は今は、そんなことを教わらないみたいですね。症状に対して、薬。以上です。製薬会社が儲かるための不潔に働きあっているのでしょうけど、まぁ今回はこの話はおいておきましょう。
東洋医学の言葉で、標と本というものがあります。本、とは症状の元になっている五臓六腑の虚実(異常)を指し、標とは、そこから現れる種々の症状です。たとえば食中毒が本なら、腹痛や下痢が標ですね。腹痛や下痢を止めても、本である食中毒が治る訳ではありません。
でも現代では、みんな標を求めます。すぐに手に入るもの。これは東洋医学でも同じで、現代の漢方のお医者さんや鍼灸師も、疾患の体系を理解せずに症状に対して処方、治療することが圧倒的に多い。
キューバに行くと、経済的な豊かさと心の豊かさは別だということをみんな感じて帰ってくるそうです。
現代人がパソコンやテレビを通して求めているもの、それが画面を通して入ってくる。心の豊かさというよりも、満足やおもしろみの為に、人は求めます。でもそれはパソコンやテレビという、偽りの心の一部、言うならばメモリやハードディスクに残っただけであって、機械なしには何ももたらしてくれない。それがあって豊かでいられる訳はないし、人生における幸福があるとも思えない。(いやあるよというのなら、どうぞ。画面のなかだけで、それだけで終わってしまう人生なのでしょう。)
東洋医学の話に戻ると、標を治すことを標治、本を治すことが本治といいます。飽食と物の洪水により、世の中には標治があふれています。それを一生続ければ、たぶん人生における本当の幸せなんて目にすることがなくても、充分に充実した(と思える)人生を送ってしまえるのでしょう。
でもそれは、欲望にたいする風俗店のようなものでしょう。本当の愛をしっていたら、愛のないセックスがいかにむなしいものかしっているはずです。(いや私には、まだよくわからないことだらけです。)恋人や、人生をともに送る人なんかいなくて、ずっと風俗嬢にだけ、オンラインの顔の見えない相手だけに愛や友情を求める、そんな人生が楽しいのでしょうか。ハックスリーの小説にもありましたね。人工授精で完全に出産が管理されて、性と愛と繁殖が切り離されて、挙げ句の果てに胎生が野蛮だなんて言われるようになってしまう時代が。
だから言いたい。みんな見せかけの物を追いかけすぎていると。金なんて、物なんて、本当に人を幸せにしたことなんてない。満足している人はいるかもしれないが、それ以上に、金のせいで苦しんでいる人の方がよっぽど多いんだから。強大な力のために苦しんでいる人を、見捨てたくない。それを見捨てなかったのが、チェ・ゲバラであり、フィデル・カストロであり、ホセ・マルティでした。
話はfacebookでしたね。おもしろいという話を聞きます。確かにおもしろいでしょう。mixiとかほかのSNSにはまって生きている人もたくさんいますね。それだけ魅力のあることなのでしょう。でもそこで得られる繋がりは所詮その程度の物だということを、忘れずにいきたいですね。オンラインの友情は、ほんとうの友情、つまりあの、同じ目標を達成したとき、手をがっちりと握りあって感じるあの友情とは、違う。または、愛、あの、心のすべてが満たされて、他に何も考えることなどできずに、ただ抱きしめる、あの愛とは、完全に違うものです。
だから私も、このブログとかネットとかは、所詮マスターベーションに過ぎない、あるいは、風邪に対する咳止めに過ぎないと常に心に刻みながら、更新しているのであります。あるいは写真の美しさ、歌の響きを素直に受け止めていただくために。
最近パソコンに依存ぎみになっていたので、改めて考え直してみました。
最後まで読んでいただいた方は少ないだろうと思いますが、ご精読ありがとうございました。


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by s-a-udade | 2011-02-12 00:18 | 日常

治療の効果

この間書いた治療を受けてから一週間経つのでそれからの経過を報告しようと思います。

まず一番気になっていた頭痛ですが、まだ一度も発症していません。コーヒーを飲んでも、明るい中を散歩していてもまだ頭痛が訪れたことはありません。ただ鼻にズブズブ入れられたからなのか、首の筋繊維を切ったからなのかわかりませんが・・・。

あとは目覚めがよくなりました。いつもは目覚ましが鳴っても30〜40分は起きられなかったのですが、今は目覚ましが鳴る前に目が覚めています。それからすっきり起きられます。
それに加えて夢をよくみるようになりました。内容もちゃんと覚えています。
ただ殆どが悪い夢ですね。女性に振られる夢や、旅先の南米でお金がなくなる夢、通り魔に刺し殺される夢・・・・。中には正夢になったものもあります。恐ろしい・・・・。
これがどういうことなのかは、よくわかりませんが・・・。
テスト前なのにあまり悪い夢は(もちろん現実も)見たくないですね。お陰で気になってあまり集中できていません。 コンビニから帰る道で通り魔に刺されるんじゃないかと不安になったり、まぁいろいろ。

頭の中のすっきり感はまだ残っています。やっぱり頭の中が軽くて、世界が眩しいです。
首も軽くて、よくまわります。

今後も定期的に治療を受けて身体の状況の管理をしていきたいですね。
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by s-a-udade | 2011-02-05 10:35 | 日常

治療院訪問

ブログでは初めて明らかにしますが、私は鍼灸の勉強をしています。

昨日、お世話になっている鍼灸学校の講師の先生のところにお邪魔して、昼間からお酒をいただいたり、勉強の一環で治療をしていただきました。
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(世間一般の常識からすれば)かなり手荒な治療をする先生でした。
血を出して吸い玉をかけたりとか、鼻の穴の粘膜に直接鍼を刺して血を出したりとか、筋繊維をえぐり出して切ったりとか。

私も、首に吸い玉で古い血を吸ってもらいました。そしたら、ドロドロというよりも、もう塊になってレバ刺し状になった血や、そこから泡が出て苺ムース状になった血が出てきました・・・・。
鼻から血を出したら、涙が出てきて(悪いところから出てくるようです)一年分の鼻をかんだような気分。
頭痛が酷いので、首の筋繊維も切っていただきました。ブチブチ。

昨日はぐったりしていたのですが、今朝は冬なのに目覚めがものすごくよくて、首も相当軽くなりました。
脳みその中身が減った気分。元からないのだけれど。
えげつない写真がいっぱい撮れました。動画も。ここには載せられませんが、見たいという方は(いないと思いますが)荒木までどうぞ。
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by s-a-udade | 2011-01-31 08:30 | 日常

the script- we cry

There comes a time when every bird has to fly
At some point every rose has to die
It's hard to let your children go, leave home, where they go, who knows?
Gettin' drunk, gettin' stoned all alone
Teach a man to fish, feed a man for life
Show your kids the truth, and hope they never lie
Instead of reading in a letter that they've gone to something better
"Bet you're sorry now, I won't be coming home tonight"

I'm sick of looking for those heroes in the sky
To teach us how to fly
Together we cry, we cry, we cry


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by s-a-udade | 2010-11-19 23:56 | 日常

フィルターが・・・・・

こないだ駅で人とぶつかって、カメラバックを肩から落っことしてしまい、帰ってから確認したら、レンズキャップがフィルターの枠にめり込んでいました。
持ち上げたらシャカシャカ音がしたので、まずいな、と思ったけど、めり込んでいるレンズキャップを外そうと思ったけれど、外れず。
フィルターを回して外そうとしたら、ギギーッと嫌な音が。

まずい。

他にどうしようもないので、そのまま半ば力ずくでフィルターを外すと、予想通りフィルターはバリッバリに割れていました。
割れた硝子を1つずつペン先を使って剥がし、なんとかキャップも撮れました。
不幸中の幸いか、レンズは無傷。
フィルターに助けられた形となりました。

前に一度、カメラを始めた時だけれど、レンズを交換中に落としてしまい、フィルターの枠が歪んでしまった事もありました。

どういうふうにカメラを持ち歩くかはその人の勝手だし、画質を維持する為にフィルターを付けない人もいるけれど(私もマクロで撮るときは外します)、見ていてこの持ち歩き方はいただけない、と思うことはしばしば。
私が口を出すことではないのですが。
でも、個人的にはカメラはカメラバックに入れて持ち歩くのがベターだと思いますよ。汚しても壊してもその人の責任ですからどうでも良いけれど。

ただ、1つだけどうしても許せないことがあります。
人が多いところで、ズームレンズを付けたカメラを肩からぶら下げて歩くこと。
子供の頭に当たったらどうするんだ、と言いたい。
誰もあんたのことなんか見ていないから、恥ずかしがらずに首から提げて持ち歩きなさい。カメラをファッションに使うんじゃない。



話は変わるけれど、百貨店でバイトを始めてから変わったことっていろいろとある。
特に気をつけているのは買い物するときの態度なんか。
テキトーに仕事しているやる気のない店員に媚びることはないけれど、手間を掛けたりしているのだから、常に低姿勢で店員さんに接するようにしています。こっちも気分が良いし、働いている人もやりがいになるだろうから。
笑顔と、ありがとう、お手数お掛けしました、ご丁寧にありがとうございます、ご馳走様でした・・・・・・。
少なくともそれくらいは言えるくらいの礼儀は身につけておきたいものです。でも、本当に気遣いの仕方を知っている、本当の意味での礼儀のある人を見て、まだまだ自分は未熟だなーなんて思うことの方が多いけれど。

なんでこんな話をしたかというと、あまりに身近な人に、自分が絶対になりたくないような客がいたということ。
どんな仕事でもそうだけど、規則とか法律とかっていうものがあって、できないことはできないから、それはお客様に対して申し訳ないけれど、お断りするしかない。できないことでも、してほしいという気持ちは分かりますよ。その法律、おかしいんじゃないのと思うこともありますよ。でもそれをすることができないんです。
それなのに威圧的な態度を言ったり、無意味な理屈を並べたりして押し通そうとする人、私にはどうしても理解できないし、こちらだって嫌な気持ちになったりとか、泣きたくなったりする。で、退勤後とか休憩中とか飲み会で愚痴として零すのだけど。
そういう客を、クレーマーという言葉で片付けてしまうのはいかがなものかと思うけれど、たまに信じられない人がいます。
面白がってそれをする人達。
私の家族の中にそんな人間がいたという事実。それを夜の食卓で楽しそうに「銀行員いじめちゃった」なんて笑っているのを聞いて、私はショックと怒りでたまらなかった。
本当は味噌汁を頭からかけてあげたかったけれど、ぐっと堪えた。けれど、幾ら爆音でギターを弾いても大好きな音楽を聴いても晴れないモヤモヤと憤怒とショックがあった。
決まり事がおかしいと思う気持ちも分かりますよ。だからって頭ごなしや、楽しむために難癖付けて偉そうな態度に出たり、嫌がらせをしたりするって、人間としてどうなんでしょう。
相手は制服を着てお客様第一です、みたいな格好しているけれど、ちゃんと心を持った人間で、この人嫌いと思うこともあるし、悲しいと思うことだってあるし、もう辞めたいと思うこともあるし、時にはこの客地獄へ落ちろと思うことも・・・・あるかもしれなくて、でもその中で優しいお客さんとか、仲間とかが掛けてくれる笑顔や言葉、帰って食べる食事とか、家族や友達や恋人との楽しい時間とか、そういうことを楽しみにしながら自分を癒して生きていて・・・・。

決まり事とお客様の要望との間に板挟みになりながら働いている人を傷つける権利なんて私たちにはないと、少なくとも私は思うのだけど。違いますかね。

話は戻るが、私のバイトは厳しく客に言われてしまうことのある様なバイトなので、すぐに辞めてしまう人もいる。そういう人達をたまに快く思わなかったりするけれど、本当に悪いのはどっちなんだろう、と思う。


多分、今日の出来事を、私はずっと許すことができないと思う。

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by s-a-udade | 2010-11-16 22:20 | 日常