東京の日常を表現していたブログですが、最近は東洋医学、文化、文明などについて思ったことを書き連ねています。


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カテゴリ:東洋医学( 6 )

普遍化する「未病」、誰もが病を抱える時代  〜「病気」「健康」のパラダイムを超えて〜

「道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。」
『老子』道徳経 第一章

(道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無名は天地の始め、有名は万物の母なり。故に常に無はもってその妙を観(み)んと欲し、常に有はもってその徼(きょう)を観んと欲す。この両者は同出にして名を異にす。同じく之を玄と謂(い)う。玄のまた玄衆妙の門なり。)


万物には名前がない。

まずは名前について考えよう。結論から言ってしまえば、名前は便宜上のものだ。
赤い果物がある。これをほかの食べられない木の実や、形や色の違うものと区別するためにリンゴと名づける。そんなもの。名前には本質が宿っていない。
中国という名前があるけど、決して実体としての中国があるのではないでしょう。国境の右と左で人間や物の本質が変わる訳ではないのだから。国境は勝手に人間が恣意的に、それも利害と恣意性によって引かれたものだから。東京ディズニーランドが千葉県にあるのもそういう理由だろう。本質的な東京なんてないのだし。そういえばアンゲロプロス監督は日本人は国境というものを理解してないと言ったらしい。そりゃそうだ、だってないんだもの。
同様に私の本質も荒木駿ではなくて、生きたこの私そのものにある。どこの学生とか鍼灸師とか高校中退とかそういうのはどうでもいいし、まして社会主義者とかそんなことで人間は判断できない。名刺の上に人生はない。
自然科学が発達して、名前の付け方も厳密になった。人間の直感と科学的な名前は衝突する。タラバガニはカニじゃないとか、ガラスは液体、「魚類」は存在しない、とか......(このへんは『自然を名づける』キャロル・キサク・ヨーン著が詳しい)。そんなんだからホテルの「食品偽装」みたいなことがおきる。鮭弁がニジマス弁当?
心に起こっている不思議な感情、よくわかんないけどみんながそれを愛だというから愛なんだろうきっと。それを他人と話すときに一般化された愛について話さざるを得ない。でもこの愛がなぜ他の人の愛と同じ前提で話されているのだろう。愛のあるべき形なんてものを論じるから、人は苦しむのだ。感情なんてみんな違うのに。


話が逸れました。

本題。病って何だろう。
まずは世界を席巻している現代西洋医学的に考えてみたら、病は検査値や身体所見に現れる。収縮期140mmHg、拡張期90mmHg以上なら高血圧だとか、うつ病の診断基準、慢性関節リウマチの診断基準...
当てはまらないものは除外されてしまう。どんなに痛みが辛くても、検査所見がないと診断名はつかない。対症療法の鎮痛剤くらいしか薬も出せない。安心もできないし。
逆に患者からしてみれば「先生これは何病でしょうか」って聞きたい心理もある。分からないと落ち着かないし、分かると(治ってなくても)安心できる。
不定愁訴が多いといままでの西洋医学だとやっかいだった。しょうがなく「自律神経失調症」とかって言ったりもしたけど、それは「分かりません」って言ってるのと同じだ。
一方で分からなかったものが新しい病として成立することもある。気分が落ち込み、人生を終わらせたくなって、便秘して、云々。どうやら脳のセロトニンが関与してるらしい。うつ病だ。とかね。
ですが、「過剰セックス障害」いわゆる性依存症とか、睡眠障害とか、診断基準があるけど曖昧。問題になるのは「自分で問題だと意識しているか」「生活に障害がでているか」というところで診断も治療も決まります。
私も軽い吃音(どもり)があるけども、これが重度だと言語障害だと言われるわけで。でもどこからが言語障害なのだろう。
じゃあHIV+は病だろうか。感染して、一度インフルエンザの様な症状が出て。そしたら何年も無症状だけど、治療の対象にはなる。これは病?
インフルエンザ感染はどこからが病だろう。ウィルスがどこまで増殖した時?検査キットで陽性となったとき?キットで陰性でもウィルスがある程度まで増えないと陰性って結果が出てしまう(偽陰性といいます)。

肩こり、というのがある。肩が凝るという表現は夏目漱石がはじめて使ったらしい(ホントかどうか知らない)。それまでは肩が重いとかそういう表現だったらしい。江戸時代は肩癖とか言ってた。けどもこの言葉なしに肩こりを意識できるだろうか?
脚が重い、だるいって症状が、たまにある人も多いと思う。いつもある人ももちろんいる。フランスではこれを"jambes lourdes"と言って、膨大な数の患者がいて、治療法もあるけど、フランス以外では報告されていない。言葉がないので。みんながその意識があっても、言葉にならないと「病識」にはならない。


何が言いたいかって、病は便宜上のもので、恣意的でもあるということ。(これは批判ではないですよ)
言葉なんて、そんなにいい奴じゃないのだ。


ところで余談になるが、精神医療を批判する人の中にはこの病と言葉の曖昧さを、知らないのか敢えて悪用してるのか知らないが、「恣意的に病名を付けて薬を売ろうとしている」みたいな人もいるし、「精神障害なんて存在しない」と言う人もいる。脳、神経系や発達の問題を"こころ"という曖昧でナイーブな(だと思われている)問題にすり替えているようにしか、私には見えない。精神医療もそれなりにおかしいけども、それを外側にいて悪い面だけを見て批判ばかりしている人たちもそれ以上におかしいと私は思う

で、東洋医学で考えたいと思います。もちろん東洋医学には「病」ということばはある。当然です。
「未病」という言葉を聞いた人も多いと思う。養命酒のCMなんかで有名になった。あれだと「なんとなく調子が悪い」って言われてるけど、厳密にはちょっと違う。未病とは字の通り「今だ病まざる」状態のこと。なんとなく調子が悪くても(西洋医学の病名はつかないが)病んでる訳だから。未病に基準なんかありません。病んで無ければみんな未病です。

中国で記録上最も古い医者は「扁鵲」という奴で、見ただけで病状が分かったけどそれじゃ信頼されないから脉を見る(東洋医学は脈の状態で病気を判断する)振りをしていたとか、いろんな伝説がある。
逸話の一つに。彼が文王に「お前は三兄弟の末っ子だというが、兄弟の内一番の名医は誰だ?」と聞かれ、「長男が一番の名医、私が一番劣ります」と答えた。王は「ではなぜ兄たちは有名じゃないのだ?」と聞いたところ、扁鵲は「一番上の兄は、病気になる前に、『こんな生活をしていたら病気になるから改めなさい』と言ってまわり、病気を事前に防いだ。だから有名じゃありません。次男は病気がまだ浅いうち、重症なる前に治してしまいます。だから有名じゃありません。私はもう死にかかった人を治してやります。だから有名になりました」と答えたんだとか(本当かどうか知らない)。

この逸話が伝えているのは病を事前に予防すること(現代的な衛生学でいう一次予防)や、重症化する前に治すこと(同じく二次予防)が大切だということ。つまり「未病」を治す、ということ。

極端な話、毎日野菜食べずに肉ばっかり食べてたらいずれ病気になるわけで、改めなきゃいけない。甘いものばっかり食べるのもよくない。栄養バランス偏るのもよくないし、ストレスが多くて発散できないのも、感情のバランスが取れないのもよくない。
だから全ての人が治療の対象になるわけです。特に今日では年間40兆円の医療費があって、削減しなきゃいけない中で、病をいかに予防するかってのが大切になっていくわけです。

「健康」とはなんでしょう。
WHOによれば、「健康とは、単に病気や虚弱ということではなく、肉体的、精神的、社会的(+spiritual)にも、すべてにおいて完全に良好(+Dynamic)な状態」(括弧内は提案が採決されたが保留状態)らしいけど、「すべてにおいて完全に良好な状態」だなんてあり得るだろうか?無理だろう。そんな人が一人でもいたら教えて欲しい。

まとめに入ろう。
「病」と「健康」の二元論で人間の身体を見ることにも限界があるとおもう(未病だって相対的だから絶対化はできない)。これからは予防医学が大切になるし、「すべての人が治療対象」ということになると思う。実際に東洋医学をやってる臨床家の多く(少なくとも私の周りの鍼灸師)はすでに全員が治療対象だと思っているだろう。
西洋医学だと基準とか数値であらわせないと病として扱えない。それも克服すべき問題で、実際最近では克服もされつつあるとおもう。
問題は現代人は数値化・診断できないものと付き合うのが苦手なこと。一部の頭の固い医者は特に。数字にできなくても、できないなりになんとか付き合ってみることが大切で、そこに患者さんの身体をゆっくり見ていくSlow Medicineや、代替医療(CAM:主流医学以外の医学。東洋医学や民間療法など)にも答えるヒントがあるはずだ。

逆説的だが、"誰もが病(の種)を抱えている"ことを理解することが、誰もが健康になることへの道となるだろう。
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by s-a-udade | 2014-03-01 18:52 | 東洋医学

科学的思考 について ("見つからない"は"存在しない"の証明にはならない意味)

このブログ、TokyoSceneryなのに最近は文書ばかりですね。。。。。
文系の私がこんなこと書くのはアレなんですけど、今日は「科学的思考」についてです。

先日、ネットでこんな記事を見つけた。
「人魚は存在しません」、米政府機関が公式サイトで(AFP=時事)
すこし気になったので米国立海洋局(NOAA)のホームページを見てみたらこんな記事だった。
Are mermaids real?
ここに書いている人魚の存在に関する文章は以下の一文のみ。
No evidence of aquatic humanoids has ever been found.
つまり「海中の人類が存在する証拠は見つかっていない。」ということ。
NOAAが表明しているのは人魚の存在を否定しているのではなく、人魚の存在を示す有効な証拠がないだけである。
つまり日本語の翻訳の方の記事は誤訳。AFP時事がこんないい加減な記事を書くとは思えないんだけど。。。。あるいは話題作りのために敢えて誤訳してるのかもしれないが。。。

前にも書いたかもしれないけど、科学において否定を証明するっていうのは非常にむづかしい。
科学的にありえないということを証明するには、科学の理論を完全に打ち立てて証明しなければなならない。
簡単に言えば、家の中にゴキブリがいないことを証明するには、「探したけど見つからなかった」「今まで見たことがない」では証明にならないということ。

この問題を話すときに思い出すのが、横田めぐみさんの遺骨の話。
北朝鮮政府が「横田めぐみさんの遺骨」だといって渡した骨を日本の三つの研究機関が分析。ふたつの機関は分析不能(1200℃以上で焼いた骨からのDNA検出は困難)だとし、帝京大学の分析の結果ではふたりの別人のDNAが検出された。横田さんのDNAは見つからなかった。
これを理由に日本政府は遺骨を偽物だと判断して、北朝鮮政府を非難した。
しかし、理屈で考えれば遺骨を偽物だと判断する理由にはならないんだな。
帝京大学の分析では、「遺骨の一部から他人のDNAが検出された」ということしかわからない訳だし。遺骨の保存状態によっては他の人の汗などが付着することもおおいにありうる。(遺骨問題を検証した科学誌NATUREによれば焼かれた骨はスポンジのようであり他の物質の吸収を防ぐのはむずかしいという)
日本政府の完全な誤り、だよね。
賢明な読者の諸君は、それが北朝鮮政府を擁護する理由にも、横田さんの遺骨が本物だという理由にもならないということは、お分かりですよね?

だから今回の人魚の記事に限らず、科学的根拠がないとか、証拠がないから否定が証明されたと思われることが多いけど、実際はそうじゃないんですよ。
たとえば「ホメオパシーに科学的根拠はない」というと、あたかもホメオパシーが科学的見地から無効であると捕らえられそうだけど、実際は「ホメオパシーは現在のところ科学的な機序が明らかになっていない」というのとほとんど同じなのであって。。。。
鍼灸も温泉も民間療法もそうだけど、科学的根拠がない、だからダメだって考えはもう捨てませんか。
だいたい、東洋医学が科学なんかに証明できるはずがないんですよ。
「気」の"存在"を否定する人がいるけど、気は本来、概念であって否定も肯定もするものじゃないんだよね。前提条件みたいなもので。本当に簡単に(誤解を恐れずに)言うなら、「気の概念を使ったら鍼灸が非常によく説明できた」みたいなもので。
それを科学に置き換えようとするからアヤシイとか言われるのであって。たぶん気の一部は酸素とかATPとか、免疫の働きであったり、量子力学的ななんらかの動きであったり、なのかもしれないけど、それは科学的な言葉に翻訳はできないでしょう。
寿司は英語でもSushiなのであって。韓国のチヂミはやっぱりチヂミでしょう。それを「韓国のお好み焼きみたいな食べ物」と説明しようとしてもやっぱりなにか違うわけで。気は、やっぱり気なんだよね。

だからCAM(補完代替医療)はときに非科学的だとか、言われてしまうんだけど、そんなことはないんだよね。
科学的な機序が明らかでないものを、イコール非科学的で無価値と捕らえる思考のほうが、実は科学的な考え方をしてないんだよね。
「鍼灸なんて非科学的だ」とか言われたら、言った人の方が科学的な思考をしていないんだから、気にすることはないんだよね。そういう人に限って最後には「ありえない」なんて言葉を使ったりして。感情論、先入観でしかないじゃないか。
まぁ、だからそういう意味で、私は「非科学的」という言葉の意味がよく分からないんだ。非科学的という言葉の方が非科学的じゃないですか。笑

そろそろ科学的根拠がない=無価値・無意味 という思考をやめませんか。科学で明らかになっていないところにこそ、新しい時代を切り開いていく可能性はないのですから。

(その意味でも私は鍼灸を未来の医療だと思っている。東洋医学を西洋医学の言葉で言い換える研究じゃなくて、医学のパラダイムを変えるために、鍼灸界は奮起しなければならないんです)
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by s-a-udade | 2012-07-08 22:20 | 東洋医学

今日から始める瞑想 心の自己治癒力を引き出す

さて、今日は突然ですが(先週辺りTwitterでちょこっとだけ触れたけど)、瞑想についてお話したいと思うのです。

というのも、先日、とある人に自分が瞑想していることをちょこっとだけ言ったら、アヤシイとか宗教じみているとか、瞑想の必要性を理解していないような発言をしてくれたので、非常に私はショックを受けたのです。
とりわけ、戦後の日本ではSpiritualityという言葉・概念が(日本語の"霊性"という言葉にすると特に)極端に排斥される傾向にあるように思うのです。(それが非科学的だという馬鹿げた意見については、以前ここに書いたので割愛します。)そこで瞑想がいかなるものであるか、どれだけ必要なことであるか、そして瞑想の実際について書いていきたいと思うのです。

瞑想とは何か。4つの側面

まず瞑想とは何か。頭の中を空っぽにして、何も考えず、すべてあるがままの状態を受け入れます。思考を止めて、頭の中を、波の立たない水面のような状態にするのです。
簡単でしょう? 瞑想という言葉が壁を作っているのなら、黙想と言い換えても良いでしょう。
私は主に瞑想には4つの効果があると実感しています。
1,頭の中を整理する。
私の経験からすると、頭の中がごちゃごちゃしてまとまらないときや、なにか一つのものごとに集中できないとき、瞑想することで集中を取り戻すことができます。落ち着かず眠れない時や、緊張しているときにも瞑想が効果的です。
2,心のトレーニング。
雑念を払いのけ、頭を無にすることは、普段の生活の中でも、例えば、なにか気になることがあって仕事や勉強に集中できないなどという状況に対する心のトレーニングとして作用します。
3,身体のリラックス。
疲れた身体にたいして、疲れを取り除いてくれます。というのは、ストレスが身体に負担を掛けて、無意識に緊張させているからです。肩や首のコリ、そこからくる頭痛などに対しても効果があるように思います。
4,心の補修。
苛立つ心、寂しさや哀しみにたいして、瞑想は平穏を取り戻す手段として使えます。全てをあるがままに受け入れること。ストレスの発散にもなります。


なぜ瞑想が必要か

言うまでもなくストレス社会です。というか私たちはストレスの少ない時代というのを経験してきてはいない。でも学校や職場、世界はあまりに効率主義です。人が感じる精神的なストレスはたぶん人間の歴史の中でもかつてないほど大きいものになっているでしょう。肉体的なストレスもそうです。
一方でストレスを受けた心や体を支えるものはどうでしょう? ストレスの量に比例して増えていたら良いのですが、残念ながら現代人にとっての心の支えは少なく、脆弱なものになってきています。
アメリカと日本ではカウンセリングの受け入れられ方が違うとよく言います。アメリカでは日常的に、特に悩むことがなくてもカウンセラーに会いに行ったりするものですが、日本では心が深く病んだと実感してからようやく行く最後の砦です。これは非常に危険なんですね。普段から心のケアをしておけば深く病むことは少ないし、逆にどうしようもなくなって人に打ち明けるというのは手遅れになりかねない状況なんです。
そして日本には宗教もありません。いや、ありますが、毎週教会に行ったりとか、一日に5回聖地に向かって礼をしたりとか、そんなことはまずないし、神棚や仏壇さえ置かない家が増えています。簡単に言うと心のよりどころが少ないんですね。
そこにでてきた新しい心のよりどころっていうのが、TwitterやSNSだと認識しています。手軽に発信でき、発散できる。ただそれは根本的な解決にはなっていないし、癒されてもいないし、頭の中の雑念は残ったままです。それどころか、TwitterやSNSが新しい煩悩を生んでいるのも事実です。コメントがつかない、つけなきゃいけない、上司から友達申請が来た……
マルクスは「宗教は民衆の阿片である」と言ったけど、私に言わせればTwitterやFacebookの方がよっぽど麻薬に近い。Twitterは民衆の阿片であると思いきっていってしまおうか。
オンラインの世界で発散するのは気持ちいいかもしれないが、自分の中に答えを見つける術が瞑想です。瞑想でも解決しきれない問題は、カウンセラーなり、お坊さんなり神父さんなりに相談するのがいいのではないでしょうか。


瞑想の実際

さて、瞑想には、大きく分けて三つの種類があります。
1,慈悲の瞑想
2,サマタ瞑想
3,ヴィパッサナー瞑想
私が普段から実践しているのがサマタ瞑想です。その解説の前に、簡単に慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想について説明します。

慈悲の瞑想
これは、言葉を唱える瞑想法です。自己暗示に近いのですが、この場合言葉が自分の思考となり、思考が現実を生むという暗示を利用しています。
唱える言葉は、日本テーラワーダ仏教教会のウェブサイトに載っていますので参考にしてください。
「自分と、生きとし生けるものの幸福を願う」という価値観のある瞑想法です。

ヴィパッサナー瞑想
これは難しいのですが、自分の五感、感情、動作、呼吸などを観察する瞑想法です。呼吸しているときに、息が入った、出た、ということを観察します。
すこしレベルを上げると、指が痛い→自分は指の痛みを感じている 自分は怒っている、と自分の思考や感情や動作を観察します、
さらにレベルが上がると、普段の動作、掃除でも洗濯でも、その行動を全て認識して観察します。
それいによって集中力を高め、物事をありのままに把握する力が上がります。

サマタ瞑想
さて、私が普段やっているサマタ瞑想を説明します。これは呼吸の数を数える瞑想法です。
というのも、雑念を払うといっても、いざ「考えちゃダメだ・・・・」と思っても難しいんですよね。考えるなっていうことを考えてしまう。なぜ考えるんだ?考えるってなんだ?とか考えてしまったり・・・・・・。
そこで数を数えることで、それ以外の雑念を排除し、頭を空っぽにします。
それ以前に、あれこれ考えてしまうことが心には負担を掛けているということを認識しなければなりません。では、はじめてみましょう。
まず、最初は落ち着ける場所を選ぶことです。自分の部屋などがいいでしょう。慣れてくれば電車の中などでもできます。
音楽を掛けたり、お香やアロマキャンドルを焚く人もいますが、自分のやりやすい環境で。私は音も香りも断ちます。好みでしょう。
姿勢は、自由にしてください。ただなるべく良い姿勢にして、呼吸を楽にしてください。結跏趺坐、半跏趺坐などもいいですが、椅子でもいいし、背もたれに寄りかかっても構いません。かたちより心の持ちようです。
半眼がいいとされていますが、私は閉眼でやっています。これも好みでしょう。閉眼だと寝てしまうなら半眼で。
腹式呼吸で、大きく呼吸しましょう。呼吸法も楽なやり方で。私は、下を上の歯茎に軽く当て、鼻から吸って、一旦止めてから口から出す、(吹くときは吸うときの倍の時間)というヨガの呼吸法を使っています。
吸って、吐くときに「1」、また吸って、吐くときに「2」・・・・。雑念がわいてきて数えることに集中できなくなったら、また「1」からやり直せば良いだけです。
そして、時間ですが、私は朝と夜に約15分、あるいはもっと長くやっていますが、
1分の瞑想を一日に何回もやるというのもいいのです。自分のライフスタイルに合わせて、無理なくやりましょう。
どうしても集中できなければ、やめて構いません。それは失敗ではありません。
ただ、人間はどうしても都合の良い方に解釈してしまいます。だんだん雑念が増えて集中するのが面倒になってくると、「もう十分やった」と思ってしまうこともあるのですが、それを乗り越えて続けることも時には必要です。

風邪を引いたら、身体が戦ってウィルスをやっつけてくれます。同様に、心にも自己治癒力があります。それを高めるのが瞑想なのです。
一つだけ注意点ですが、瞑想は確かにリラックスでき、疲れもとれます。ただし睡眠に代わるものではありませんので、睡眠はいつも通り十分に取ってください。
無理せず、のびのびと。お酒は控えめに。野菜中心のバランスの良い食事を。十分な睡眠と運動を。そして瞑想で、あなたも健康になれます。
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by s-a-udade | 2012-05-20 23:10 | 東洋医学

私にとっての東洋医学 気の思想

私が鍼灸を勉強しているのは、このブログの読者の方にはたぶんご存じの事と思います。
いずれは東洋医学について、知識のない人でも、どんなものなのかを理解できるような記事を書いてみたいなーと思っていたのですが、なかなか書き出せなかったのです。
というのも、東洋医学について解説した書籍やホームページはごまんとあって、それらは私の文章よりもずっとわかりやすく面白いからです。私がわざわざその中に乗り込んでいっても居場所がほとんどないのは明らかなのですね。

でも、自分が東洋医学をやっている以上は、ブログの読者のみなさん、要するに友達のみんなに少しでも東洋医学を分かって欲しいなって思っていて、書かずにはいられない。そこで考えたら、教科書的な東洋医学の解説ではなくて、自分にとっての東洋医学の見方を書いたらいいんだ、という結論に至ったのです。

ここに書くのは東洋医学の常識的な考え方ではないかもしれません。異論反論あるかと思います。偏った考え方かもしれないということをご承知の上、読んでいただければ幸いです。


そんなわけで、第一回は「気」について書こうと思います。

気。
こんにち、気というとなんだかアヤシイイメージがつきまといます。
なぜでしょう。
それはね、実体として「気」を捕らえようとするからだと思うのです。
気なんてあるわけないじゃん。そういったら終わり。
「気なんてあるわけない」確かにそうなんだよ。それは目に見える形では存在しないし、写真にもレントゲンにもサーモグラフィーにも写らない。
じゃあ気は存在しないかって、私はそうは思わないんだ。
「気は実体ではない」と思うから。
気はエネルギーです。身体を動かすエネルギーであり、身体を衛る為のエネルギーであり。それは機能を総称したものであって、実体ではないんだなぁ。
だから、無理矢理にでも「気」を現代医学的に解明しようというなら、一部は酸素の働き、一部は赤血球の働き、一部はリンパ球の働き、一部はミトコンドリアの働き……。とキリがなくなってしまうはずです。注目すべきは、「酸素」ではなく、「酸素の”働き”」と書いた点です。気は実体ではなくて機能の総称、あるいは概念であると私は考えています。(それは東洋医学的な臓器の働きが実体ではなく機能を指していることから。その話は別の回にしましょう)
教科書的には、気は先天の気と後天の気に大きく分類され、その中に宗気、栄気、衛気、精気、穀氣などがあり、それぞれに定義があるのです。ここでは主題からそれてしまうので、気になる方は自分で調べてください。
だから決して、気というのは非科学的でアヤシイものではないのです。


話は少し変わりますが、実は鍼灸術というのは世界中に存在したという説があります。

1991年、ヨーロッパ・アルプスの氷河から発見された5200年前の男性の遺体「アイスマン」の腰、右膝、距骨關節、ふくらはぎなどには入れ墨の跡があった。
1947年、南シベリアのアルタイ山中、パジリク古墳から発掘された男性のミイラにも同様の箇所に入れ墨がみられた。
それらが針治療の跡であると推定されたことから、新石器時代にはヨーロッパからシベリアに掛けての広い大陸で、素朴な針治療が行われていたという仮説が浮上。
詳しい話は省略しますが、それがなぜ中国でだけ発達したかを考えると、針治療が気の思想と結びついたからだと考えることができます。
本当にざっくり言えば、経験的に集積された情報を説明するのに気という考え方が最も適していたから。針治療による効果を気によって説明することが出来て、気という概念を使って針治療を発達させることができた。そこにさらに東洋的な思想、陰陽、五行論などが乗っかってきて中国医学ができたと考えることができるのです。(あくまで簡単な説明です。実際は計り知れないほど複雑な過程があったのでしょう。)
気は抽象的な概念であるけれど、それは一つの哲学にもなりうるものです。

五臓六腑という言葉がありますね。
私たちは六臓六腑と考えることが多いのです。
人体には、六臓六腑に対応した気の流れが12本走っています。それを「経絡」といいます。経絡の上に「経穴」があります。経穴とはいわゆる「ツボ」のことです。(その辺の詳しい話もいずれ書きましょう)
ここで言いたいのは、気の流れに実体があるわけではないのです。あくまで経験の蓄積から帰納法的に見出されていったのが経絡だということです。経絡を解剖によって証明しようとした動きもありましたが(北朝鮮のキム・ボンハン学説)無意味なことです。
少し誤解を恐れない言い方をすれば、気も経絡もフィクションです。
現代医学では解明されていない様々な生命現象を説明する、そのための理論が気であり経絡であり、陰陽論や五行論であるのです。

少しは気について分かっていただけたかな。次回はこれをもとに五臓六腑について書こうかなと思います。

参考文献『日本鍼灸へのまなざし』松田博公 緑書房 および松田博公先生の授業資料より。
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by s-a-udade | 2012-04-21 00:24 | 東洋医学

今日からできる東洋医学② 現代の食へのアドバイス

一昨日は、東洋の陰陽の考え方から食をみつめてみました。
それを踏まえて、現代の食の問題から健康へのアドバイスを考えてみたいとおもいます。
私は大体の体調不良は普段の生活環境を改善すれば起こらないという仮説を考えています。まだ裏付けは薄いのですが……
冷えが万病の根源とする考え方もあります。食から冷えを排除するというのも一つの方法でしょう。(夏にはある程度の冷却は必要ですが、冷房の効いた室内ではむしろ不要でしょう。)

・パン食をやめる
特に工業的に作られたパンというのは添加物の観点からも危険ですね。小麦粉も果皮や胚芽は取り除かれていますから体を冷やします。パンと同時にヨーグルトもやめましょう。ご飯と味噌汁を基本にするだけで大いに陽の方向に傾きます。
・果物に気をつける
果物も体を冷やす物が多いですね。本来日本になかったものも多いですね。秋に柿は美味しいけれど、体を冷やすのでほどほどにしておきましょう。また果物はできるだけ朝に食べましょう。昼の暖かい時間に体が冷えてくるからです。夜に食べると寝ている間に体が冷え、消化機能を落とします。
特に気をつけない食べ物はバナナですね。青い状態で出荷されて追熟するという他にないものです。南国のものなので日本人には向かないでしょう。私はもうバナナを食べるのをやめました。
・干したものを食べる
椎茸、柿、梅などはそのままだと体を冷やすのですが、干したものは大いに体を温めます。冷えたなぁと思ったら干し柿や干し芋を食べてみては。
・間食に気をつける
お菓子は適量が大原則ですが、洋菓子はだいたい体を冷やします。小麦粉が使われているものが多いですね。チョコレートもカカオに砂糖と南の国の食べ物がふんだんに使われています。
逆に冷えないものは甘栗や煎餅、あられ、饅頭などですね。「甘栗むいちゃいました」は有機栽培で添加物もなく安心なのでおすすめです。
・陰が育むものは陽であり、陽が育むものは陰である
これは私の仮説です。しらべればこういう考えも出てくるでしょう。
雪国で育った人は寒さに強い。これは明らかに陽の性質ですね。夏の食べ物が体を冷やすのも同じ理由でしょう。
だから、地中と地表を陰と陽に分けたとき、地中に生きる食べ物、つまり根菜は陽で葉菜は陰の性質を持つのです。根菜を食べて体を温めましょう。
・皮まで食べろ!
内面は陰で外面は陽と考えますから、植物の外面である皮は陽の性質を持っています。皮まで食べてこそバランスが取れるので、逆に実だけ食べていたら体を冷やすのですね。白米より玄米を食べましょう。またミカンの皮は天日に干して煎じるなりお風呂に入れるなりして活用しましょう。
・欧米の食事は体を冷やす
欧米人って日本人に比べて体温が高いんです。だから私が海外で風邪引いて、熱を測って38度だった。そしたらなんだ平熱じゃないかって言われる訳です。陰陽とは相対的な概念であって、同じ物を食べても日本人の方が体を冷やしてしまうのです。
・肉から魚へ
腸管の長さはもうお話ししましたね。日本人は残念ながら多く吸収してしまうのです。また、肉の脂肪は魚の脂肪に比べて溶ける温度が高いのです。だから魚の脂肪を摂取しても定着しにくいのですが、肉の脂肪は定着して、簡単には分解できなくなってしまうのです、
・酒の飲み方を考える
アルコールというのがそれ自体がエネルギーなのではなくて、エネルギーを消費させて熱を出すのです。それに大体は体を冷やす物ばかりですね。日本酒の温かいのを飲むのが理想です。ただお酒を飲む機会を考えると、特別な日というのはたまには健康に配慮しなくてもいい日と考えることもできるでしょう。日々のお酒とのつきあいを考えよう、ということなのです。
・美味しいものとは何かをもういちど考える
私の考えでは、現代の食事は脂肪と(化学)調味料に汚染されていると断言できるんです。たとえば二、三十年前まで、マグロのトロは土木作業員の食事か、棄てられる物でした。脂の食感しかしないんです。それは味ではないですよね。肉も同様で、A5ランクとかの何が良いのかわからない。ただ脂がとろけてるだけじゃないですか、そこに味の善し悪しは問われていないのです。でももしそれが本当においしさなのだとしたら、野菜にもはや存在意義はありませんね。個人としてはトロよりも赤身、赤身よりも白身の方が繊細な味わいがあって好きなのですが・・・。同様にフライドポテトなんてどこに価値があるのかわかりません。化学調味料についてはもはや言うまでもありません。私は味の素を使うと咳が止まらなくなります。自然本来の食事をして、それらの美味しさを再発見するというのは、結局それらを味わってしか分からないものなのだと、私はおもうのです。


追記
もちろん誰にでも冷えがあるわけではありません。自覚的にも触ってみても冷えがない人が身体をあたためるのも逆効果ですね。ぎゃくにほてりや熱感のある人はすこし身体を冷やしてみましょう。
一方で「上実下虚」というものあり、これは上半身に気が上がりすぎて下半身に力が足りない状態なのです。足は冷えているのに頭はほてる、などというのは上実下虚ですね。運動などで気の巡りをよくしてみましょう。それでもだめなら鍼灸へ。
薬膳、というのもありますがこれは一つのパターンにおさめられるものではありません。身体が冷えている人も熱い人もいて、力が足りない人も有り余っている人もいて、急性の病の人も慢性的な人もいます。この食べ物が身体に良い、という思い込みはやめた方がいいでしょう。それぞれの身体にあった食べ物を見つけていくことが大切なのです。
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by s-a-udade | 2011-11-09 22:24 | 東洋医学

今日からできる東洋医学①追記

昨日の記事の「日本人には日本の食事」の裏付けとして最大の理由に腸管の長さがあります。
日本人は欧米人に比べて腸が1.5倍ほど長いのです。これは野菜と穀物(繊維が多いので消化に時間がかかる)中心の日本食に適しています。だから欧米人のような高カロリー食を食べると多く吸収されてしまうのです。
あと、例えば日本人には牛乳を飲むとお腹を下してしまう人が多いですね。これは乳糖を消化できない人がいるからですが、これは乳糖分解酵素を作るための遺伝子を持たない人がアジア人や黒人にも多いのです。
日本には日本人の体に合った食が発展して現在の日本食が作られてきたんですね。
それから、日本人がよく好んで食べる松茸。これも日本人が多く持っている遺伝子が、松茸のもつ物質の香りを快いものと感じる作りを生み出しているからなのです。だから外国の人には松茸の香りというのが分からないんですね。それに日本食は出汁をベースにしますが、これも"旨味"を感じるための遺伝子が働いているからなのです。
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by s-a-udade | 2011-11-09 17:55 | 東洋医学