東京の日常を表現していたブログですが、最近は東洋医学、文化、文明などについて思ったことを書き連ねています。


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ふらっふら。

昨日は昼間から飲んできました。夜遅くまで、ずっと。

二件目にパブに行ったんだけど、掛かっている音楽がことごとくアメリカンでした。
Black Eyed Peasとか、Usherとか、TrainとかMaroon5とか。なんだったんだろう・・・・。ブリティッシュパブでしたけど・・・。

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by s-a-udade | 2011-02-22 23:21 | 写真

世界の巨大なチラシの裏側 5 旅先でいつも思うこと

あぁ、旅に出たい・・・・。あと一月経ったら行くけれど、今すぐに行きたい。近場でいいから。あ、大使館行かなきゃ・・・・。
私がする旅と言えば専ら貧乏旅行だけど、それが悪いことだとは思わない。いやむしろ、お金を持っていたとしても、今みたいな旅をするんじゃないかなぁ。旅するなら絶対に一人だから高いホテルに泊まったって退屈なだけだし、バックパッカーズとかに泊まって世界中から来た若者と語り合ったりとか、B&Bに泊まって地元の人の話を聞いたりとか、そういうことが旅の楽しみだから。ただ有名な教会とか歴史的な建物を見ることが旅だとは思わない。観光旅行ならありかもしれないけれど、観光旅行がしたいのではなくて、旅がしたいんだ。

若い人の旅行離れが叫ばれているけれど、実際減っているのは海外旅行だけだ。むしろ国内旅行なら積極的。
国内旅行というのは、ちょっと贅沢なレジャーとしてとか、親睦のためとかいろんな理由で行ける。
私が、若い人が海外に行かなくなった理由に、インターネットやテレビで、簡単に世界を手にした気になれてしまうことがあるのではないかと思う。世界中いろんなところを旅する番組ばかりだ。「世界ふれあい町歩き」なんて素敵な番組だけど、それだけで旅した気分になってしまう。気になったらネットで調べてしまえばいい。こんな観光名物があって、それをいろんな角度から撮った写真もあり、誰かが書いた旅行記まである。そこまで揃っていて、もう充分なのかもしれない。確かにネットで見たものを実際に目で見ただけでは、そんなに感動もないかもしれない。ハイヴィジョンの鮮明で美しい映像だとか、名高い写真家の撮った写真だとかが手に入る。撮り方がうまいからむしろ自分で見たらがっかりするかもしれない。
あるいはテレビが価値観を作っているのかもしれない。テレビに出ていた店が○○で紹介されたからって理由で行列ができたりする時代だ。テレビ番組や雑誌で取り上げられた店とかものとか、そういう物ばかり追いかけて満足しているだけじゃ、いつまで経っても自分の価値観っていうのは形成されないんじゃないかな。ではもし、ある人がある番組の特集ばかり追いかけていたとして、その番組が、高いお金を払った店ならどこでも紹介してしまうような番組だったと発覚したとしたら?その人の価値観なんてものは、どこにいってしまうんでしょう。自分が、自分でいいと思ったものだけを選んで満足する、そうやって価値観ができていくんだと思う。
だから私は、ガイドブックに頼った旅行というものをあまりしない。ガイドブックは確かに、歴史的な価値とかを総合してできるだけ客観的に作っているのだろうし、確かに歴史とかを勉強してから旅してみると楽しい。だけどそれはそれで、他に自分が素敵だと思えるような自分だけの発見、みたいなものがあるといいな、と。ここの教会の入り口の番をしてるおばちゃんがとってもチャーミングで優しい、とか、ここの小さいお土産物やさんの女の子が綺麗でフレンドリー、だとか、広場の噴水に腰掛けて人の流れを眺めているとなんとなく落ち着く、だとか、たまたま見つけたカフェとか・・・・・。
世界遺産めぐりとかっていうのも、馬鹿馬鹿しいと思う。私はね。
確かに世界遺産だというのは一定の価値を認められたということだ。でもそれは歴史だとか景観だとか、一定の基準から見たもので判断しているに過ぎない。誰もが同じ価値観を持っているのならいいけれど、にんげんだもの。人の感じがいいだとか、もっと個人的に、この宿のマスターが優しかっただとか、そんなふうにその街を好きになることだってあるでしょう。
夏目漱石は『愚見数則』という文章でこういっています。
鶴は飛んでも寐ても鶴なり。豚は吠えても呻っても豚なり。人の毀誉にて変化するものは相場なり、値打にあらず。
世界遺産に登録されたからって価値が変わるわけじゃない。世界遺産だから価値があるというのも間違いだ。書道のコンテストで金賞を取ったからその書が綺麗になるわけじゃない。もともとその書は綺麗だったのだから。それに世界遺産じゃなくたって自然や文化は同じように尊重するべきでしょう。どの文化が劣っていて、どの文化が勝っているなんてことは絶対にない。
だから旅に行くと、できるだけ日程を柔軟に変更できるようにする。旅仲間から、この街が良かったとかっていうのを聞いてそこに出掛けてみたりだとか。なるべく一つの街に長く滞在して、自分が気に入る自分だけの場所を探してみる。だから街に着いたら、ガイドブックや地図は持たずに、ただひたすら歩いてみる。カメラと財布だけを持って、ふらふらふらふら。あ、ここ、なんかいいな、落ち着くなっていうのを探す。がいどぶっくなんかに、「この鐘楼からの眺めは圧巻だ」なんて書いてあると、期待して行ってしまうけれど、そうして見た景色というのは前もって心の準備があるから驚きがない。そうではなくて、間違ったバスに乗ってしまってたまたま着いた丘の上から、さっきまでいた街を見下ろしたら映画の一部みたいな美しさだった、なんていうのはずっと心に残る。旅の醍醐味は邂逅だ。人との邂逅であり、街との邂逅であり。

旅先で書くエアメールっていうのも、割とすきだ。自分には帰る場所があって、そこには仲のいい友達とか仲間がいる。いま旅の途中で自分はひとりだけど、繋がっている。旅先で書く手紙っていうのは、返事を期待して書いたものではない。その手紙の文章の中には、自分しか存在していない。そういう点で、ネット上に氾濫するあのメッセージと同じなのかもしれないね。でも違うのは、旅先で書く手紙は、書こうが書かまいが、「あの人どうしてるのかな」っていう愛情だとかがこもっている手紙だっていうこと。たとえ自分が主体の手紙だったとしても、そこに込める思いで意味は全くかわってくる。
ある人と一年近く、ずっと手紙だけのやりとりで関わってきたことがあった。あの人からの手紙来ているかな、なんてのが楽しみで毎日家に帰った。月に二度か三度かしか手紙は来ないけれど、だからといって、普段メールすればすぐに返事の返ってくる友達よりも距離があったとは思わない。ちゃんと気持ちのやりとりができていたからなんじゃないかな。むしろ、無意味なメール交換を頻繁にする相手よりもずっと近くに感じていた。
昨日書いた元カノの話じゃないけれど、現代人がメールみたいな感覚で文通しても意味ないでしょうね。メールはコミュニケーションツールかもしれないけれど、今は「コミュニケーション」に本当の意味の「コミュニケーション」が入っていないのですもの。
手紙が届くか届かないかもわからない時代、届いたとしても返事などとても期待できないような時代の手紙っていうのは、とても興味深い。たとえば万葉集、あれに載っている恋の歌なんて、込められたメッセージが濃くて濃くて、時代背景とかその人置かれていた状況だとか、そういうことを解説してくれないととてもじゃないけれど読み解けない。(だから高校生なんかにそういう歌を読解させるのは酷でしょう。)でもその意味がわかると、これだけの和歌が詠めるほどの気持ちと才能に驚く。残念だけど、簡単に気持ちが伝わってしまうご時世だから、どんなに有名な歌人であっても、それだけの歌を読める人っていうのは、まずいない。再び戦争が起きて、日本中焼け野原になってしまえば詠めるかもしれないけどね。

愛おしくてどうしようもない気持ち、でも会えない、そういう時間が、恋や愛をはぐくむのではないかなぁ・・・・。
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by s-a-udade | 2011-02-20 00:58 | 日常

世界の巨大なチラシの裏側 4 コミュニケーションツールの進化論

昨日の記事を書いていたときには、「世界の巨大なチラシの裏側」には、もう書くことがみつからないと思っていたけれど、書き終えた直後からまた、書きたいことが出てきてしまって。ほんとうに、わからないものです。
もともと、シリーズになるはずじゃなかったのになぁ。
今日も私の経験と推測から話をさせていただくので、あまり論理的ではないかもしれませんが、気軽に読んでみてください。

毎日毎日、ことあるごとにfacebookに書き込んだりしてる人がいます。気づいたらその人の書いたことでいっぱい。何かあると書かずにはいられないのかな、なんて思ってしまう。
以前に、付き合っていたというか、遊んでいたくらいの仲だけど(彼女は本気だったのかもしれない)、まぁ遠距離恋愛?擬似恋愛?をとにかくしている人がいました。(あの頃の私は酷い男でした。今もかな?)彼女は韓国に留学していて、まぁ金持ちだったから国際電話もバンバン掛けてくるし、日頃のやりとりはメールでした。メールだったら、まぁ日本にいるときと感覚は変わりませんよね。お金持ちなので月に一回は帰ってくるし、それほど遠距離っぽいそれではなかったのです。
で、何が言いたいかって言うと、私の提案で、エアメールを交換しようって話になったんです。文通。彼女はろくに手紙とかを書いたことがなかったんだけど。
そうしたら、私が思っていたのは、手紙を書いて、相手の返事を待って、待ちわびて毎日ポストを見ては一喜一憂して、相手の気持ちをちゃんと読んで、考えて書いて出して、・・・・の繰り返しなのかなぁ、とかって。まぁそんなロマンチックな恋なんかじゃなかったから、それほど期待していなかったんだけれど、まぁそんな感じかなあって。

しかし、実際。

私は一度も手紙を書くことはありませんでした。
しかし彼女からは、本当にたくさんの手紙が来た。
つまり、私のことを思って、常日頃思ったことがあればそれを手紙にして送ったのです。返事を待たずに次の手紙を書く。次第に「何月何日」と書かれた手紙(?)が何束か一気に届くようになりました。
・・・・・これはおまえの日記帳じゃねぇ!!
つまり返事よりも、今の自分を伝えるだけで満足していたんでしょうね。相手と意見とか気持ちを交換していくものではない。
投げて、それでおわり。
これじゃぁコミュニケーションじゃないではないですか。お互いの言葉を交換しあって、話す、だからコミュニケーションなんですよね。まさにキャッチボールですよ。
だから、メールをしていても楽しい人は、ちゃんと人の話を聞いて、的確な意見とか答えを返してくれる。自分の感情をぶつけるだけじゃない。そしてそういう人は、だいたい会って話すことが大事だとわかってる。
聞いてみれば、最近の中高生は愛の告白までもをメールでするそうな。おいおい、文字だけ伝わればそれでいいのかい?君の恋心とやらは、文字コードに変換できてしまうくらい単純なものだったのですか?

私の元カノ(?)個人のことを一般化して話すのはよくないけれど、彼女だけではないと思いますよ。たくさんいるでしょう。そういう人は。
今はメールでインスタントにメッセージを・・・・いや、言葉を送ることができるけれど、手軽すぎて会話というよりも、送る側だけが主体になっていてしまって、相手が存在しない。顔が見えないんだもの。相手が退屈そうにしている顏も見えないし、面倒だけど義理だからって鼻くそほじりながらメールしてても相手には見えない。ただ感情と、笑いと、たまに共感があったりするだけ。そんなことばかり話していたって、人生に刺激を与えるだけの親友なんて生まれる筈はない。人生に花を咲かせる恋ができるはずがないんです。どうなってしまうんだ、この国はいったい・・・・・。

でも、私はこのまま、ネットワークを使った「コミュニケーション」が、むしろ相手の顔を見て話す会話よりも主流となってしまうのではないか、と恐れている。もうなってんのかもしれないね。
たとえば音楽にしても、元々はコンサートなんかで聞くのが主で、(もっと以前は違う形だっただろうけど、干渉としての音楽が主流になってからの話。)レコードはそれの代替手段として生まれた。だけどレコードが発達して、安く作れるようになり、デジダル化して今はCDどころかダウンロードが主流だ。ポピュラー音楽のライブならそれなりに楽しみもあるが、そうでなければ静かにしていないといけないし、好きなところだけ選んで聴くこともできないし、という「欠点」さえ見えてきた。
文字だけのコミュニケーション、あるいはネットで繋がった会話にしても、いずれ「会話」といえばそっちの方がメインになってしまうんじゃないかなぁ。直接会って話すと気を遣わないと行けないし、面倒だ、なんて時代がくるのかもしれない。おそろしいおそろしい。
それじゃあ相手の心って言うものは見えてこないでしょう。ふとした目線だとか、ちょっと会話が途切れたときの息づかいだとか、手を弄ってもじもじしているところだとか・・・・。そいうところからわかる相手の感情っていうのは、かなり大きい。でも会話だけじゃぁ心はつかめない。相手の本当の感情って言うのはわからないはずだと思うんだけれど。

本質を見ようと言ってきたけれど、それは物事を理解すること以前に、自分の心に当てはめてみるべきなのだろうと、最近気づいた。自分に迷いが生じたとき、自分が本当にしたいのはなんなのか、目標を達成するために必要なのはなんなのか。
あるいは恋において。迷いはいろいろとあるかもしれない。でも、自分や相手が一番幸せでいられる道はなんなのか。自分の感情のなかで、一番大切な物は何?どれが幹で、どれが末梢なのかを把握して、決める。だから一時の楽しみのための恋もどきは所詮後悔しか生まない。(先に述べた、手紙の女性のように。反省しています。)自分や相手の幸せを考えて出した結論だったとしたら、幸せになれるでしょう。本物の、心からの恋というのはこの上ない幸せです。(私は幸運にもそちらの方に出会ったことがあったらしい。)自分の本当の気持ちを見つけることで、自分に忠実な生き方ができるのではないでしょうか。

本質を伴わない行動もまた、チラシの裏の落書きのようなもの。ただ楽しみのために、手を出した賭博だとか、怒りの為に殴っただとか、そういうことは人を幸せにはしてくれない。ただ自分の感情だけで完結してしまうほどの「コミュニケーション」は、落書きの交換、二人マスターベーションです。そんなんじゃ、さみしいじゃない。もっと、生きている人間を見なきゃ。俺、ここにいるよ?
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by s-a-udade | 2011-02-19 00:47 | 日常

雪だるま

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いつからいたのか知らないけれど、うちに雪だるま君がいたんです。この子、七色に光るんです。

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by s-a-udade | 2011-02-17 23:04 | 写真

世界の巨大なチラシの裏側 3 映画「シチリア!シチリア!」を見て思ったこと

映画「シチリア!シチリア!」を見てきました。
ストーリーと言うほどの物語がない映画だったのですが、素晴らしかったですよ。
まずは映像。すべてのシーンが、そのまま写真として芸術になりうるくらいの。監督と音楽は「ニュー・シネマ・パラダイス」を手がけたジュゼッペ・トルナトーレとエンニオ・モリコーネ。芸術的だったので、たぶん一度見ただけでは気づかないであろうことがたくさんあったはずです。まだあと二回くらいはみたいですね。少なくとも。
舞台は一九三〇年代のイタリア、シチリア島のバーリア。(バゲーリアを、地元の人はこう呼ぶ。)第二次世界大戦に揺れるイタリアとその市民を美しく描いています。

・・・・・・見たいけれどまだ見ていない人がいたら残念なので、展開については言及しません。たぶん。


あの頃、生きることはもっと美しかったんだ、と見終わってから最初に思いました。政治はもっと世間をよくするためにあって、社会主義はその中心だった。人間の行動範囲は狭くて、でもそのなかでも満足できるくらいの人生の楽しみ方を知ってい。だから嬉しいことも悲しいことも、人生は美しく見えたのでしょう。

あれほどまで町並みを美しく映したのは、現在の景観と対比させるためではなかったのかな。確かに発展して経済的に豊かにはなったけれど、町並みは無機質に醜くなってしまったし、人間の生き方についても同じでしょう。人と人はもっと互いに近いところにいて、互いを欠かせない存在だと思って生きていた。感情表現はもっと粗野だったけれど、きっと常に無表情で生きている現代人よりはよっぽど、あらゆることを楽しんでいた。(だからfacebookなんか・・・・って、もう言い尽くしたことだからいいですか、そうですか。)

私は二十歳だから知らないけれど、日本も高度成長期あたりまではそうだったんじゃないかな。ある程度発展してしまった後で、日本人は豊かになろうという意志もなく、ただ過去が作った恩恵だけにすがって生きるようになってしまったのではないでしょうか。一度手に入れた便利さを、手放すことは難しい。「喜び」や「楽しみ」はずっと身近に簡単に手に入るようになってしまったけれど、それらを手に入れるまでの過程を忘れてしまえばそのありがたみもなくなっていくのでしょう。
豊かになることは、確かに素敵だ。でもすべてが便利になりすぎてしまったら、それこそSFの世界。人間はなにもしなくてよくなる。機械とかコンピューターが全部やってくれる。人間は自らその存在価値を否定することになってしまうでしょう。でも一度発展してしまったら、発展し続けるしかないというのも事実です。なぜなら企業なしにはものは作れないけれど、企業は潰れてしまわない限り新しいものを作って売り続けなければならないからです。
いま、手を伸ばせば欲しいものは手に入ります。その便利さを知ってしまった以上、「いまあるもので我慢する」という意識を持つのは不可能でしょう。携帯がなければ不便だけれど、最近の若年層にはそれどころかないと生きていけないと言う人が多い。繋がっていることに依存しているんです。

日本の政権は迷走して、借金も増えて、どんどん悪くなっていく一方です。この映画に描かれた時代、少なくとも政治は今みたいな理由の為には存在しなかった。日本は墜ちていく。その理由は昨日書いた通りです。でも、今の日本人には、エジプトのようなデモや、安保闘争のような運動をやる風潮はありません。私はその理由を、この飽食の時代のせいではないかと思っています。今まで、すべてのことが、なんとかなってきた。だからなんとかなる。今の生活に何一つ不自由はないし、苦しいこともない。政治なんて政治家のためにあって、テレビの向こうの世界の話だから。
でも今の政府がやっていることは、子供の名義で金を借りて豪遊しているようなものです。ジジイばかりの国会議員、借金がどうしようもなくなった時に、奴らはもうくたばっているか、厚かましく長生きしてても耄碌しているか薬なしでは生き延びられない状態。若者が怒る理由は大いにある。
でも政治についてそこまで本気で考えていないのは、若い世代の生活に政治がそこまで直結していないから。数十年前なら違ったかもしれないけれど、いま生活に直結しているのはむしろ企業だとか、ネットワークの話。たとえ話がわかったとしても、動きはしないでしょう。

もう一つ、科学技術ではない科学が、発展してしまったからこうなってしまったのかもしれない。
昔々、進化論もなく理論物理学もなく、地球の始まりとか生命の始まりだとかの説明がつかなかった頃。人間は不安だったでしょう。なぜ、自分がここにいるのか。どうして人は生きているのか。
その答えを教えてくれるのは、宗教だった。原罪の為に生きなければならないとか。そう教えてくれて、どのように生きればいいかを示唆していれば、安心したんじゃないかな。そうだったのか、だから私は生きなければいけなかったんだ。って。宗教の中でも、人々の共感を得られるものとか、環境により適したものが生き残ったのではないかな。だから宗教の内容は概ね多くを求めないこととか、そんなことを教えている。そうやって生活しないと身を滅ぼすことが経験からわかってきたんでしょう。
でも、世界の真理はそうではなかった。謎が解き明かされていくにつれて、既存の宗教が必ずしも正確ではないとわかってきました。しかしそれは同時に、人間に存在の理由がないことを証明しています。
宮沢賢治の詩『生徒諸君に寄せる』にはこうある

今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
われらの祖先乃至はわれらに至るまで
すべての信仰や徳性は
ただ誤解から生じたとさえ見え
しかも科学はいまだ暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ
(中略ー引用者)
あらゆる自然の力を用い尽くすことから一歩進んで
諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ



自立って、難しいですね。携帯や文明に頼って生きるのも自立できていないと考えていいのではないかな。原発に朝鮮からのミサイルでも落とされて首都圏大停電、あらゆるツールが使えない、何があったのかわからない、なんてときにも、精神的に平静を保っていられるくらいの自己ではないと、衰退していく社会で生きていけるのでしょうか・・・・。まぁ、いまは豊かだから、いいかもしれないけど。何かに頼って生きていたんじゃぁ、困難にも立ち向かえないでしょう。てめぇの人生なんだから。てめぇで走れ。そういったのは、矢沢だった。経済的自立、精神的自立のほかに、(あるいは精神的自立の中に)、文明の利器からの自立、っていうのも、今後必要になってくるんじゃないかと、私はおもう。
この時代に逆行して、肥大化する社会から離れ回帰しようという動きは、世界のおもに先進国のごく一部で、すでに存在はしているけれど、でもそれが浸透しないのは、現代人の理想とは遠くかけ離れているからでしょう。スローライフとか、LOHASとか、小さなブーム的なものではあるけれど、身近なところにも、そういった考えがありますね。
常に進化していく時代が、止まるということはないでしょう。でも利益と理想を追求している企業よりは、ありのままの人間の姿に回帰しようとする流れの方が、本質を見ているから、成功するとは思いますよ。それがどのような形でなのか、私には想像がつきませんが・・・・。もしかしたら、人間が使いうる資源の限りを使い尽くして人間が困り果てた後に? 絶望する人間の精神を救うのは、そういった思想かもしれませんね。物を作るための力も物もなくなって企業がどんどん潰れていけば、その思想を消そうとする動きもなくなるでしょうから。誰か、そんな主題でSFを書いてくれないかなぁ・・・・。

でも私は予想屋ではないので、ただ予想して終わり、という風にはしたくありません。動かなければ・・・。
この世界を変えるために、自分ができることをもっと考えていきたい。


昨日までは文献を引っ張って話を進めてきましたが(多少論理展開が強引なところもあったけれど)、今日は映画の感想として、個人の予想や推測をもとに話を進めてみました。
昨日の記事を書いたときには、もうこれで終わりだと思っていたのですが、今日映画館を出たら、いつもの新宿がちょっと違った町並みに見えたので、これは続きが書けるかなぁと思って書いてみました。またこんなに長い記事になるとも思っていませんでした。読んでくれてありがとう。なにがご意見がありましたら、コメント欄にでもメールでも直接いうのでもどうぞ。でも幻影にすぎない幸せを求める気はないのでどうぞ本音で語ってください。
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by s-a-udade | 2011-02-17 23:00 | 日常

世界の巨大なチラシの裏側 2 (毎日新聞の「無資格者が実技指導、生徒の腰悪化」報道の真相)

この記事この記事の続きです。


リンク  マッサージ:無資格者が実技指導、生徒の腰悪化 都内(毎日新聞社)
私の学校について、毎日新聞からこんな記事が出た。この事件に関しては行政側の調査や処分については完全に終了していて、だから15日の立ち入り調査というのは全く別件についての話であるから、この部分に関しては事実と反する。
ただし事件の概要について、決して間違ったことを書いている訳ではない。ただし事件はもっと複雑だし、簡単に片付けられる問題ではなかったのだ。ただし事件の詳細は、このブログの記事とは関係ないので割愛させていただく。

まず、教員資格がない人間が指導を行っていたという点に非難が集中するだろう。むろん、指導していた人間は「あんまマッサージ指圧師」の免許は持っていたが、「教員資格」がなかったという話である。この記事を読む限りは両者の区別がはっきりしていないので、まずその点を注意していただきたい。教員の資格がないのは「講師」として学校に採用されている。
この「教員資格」とうのはどういうものなのか。鍼灸学校は一般に三年制である。三年の修業の上に、国が実施する国家試験に通れば晴れてはり師、きゅう師、あんまマッサージ指圧師の免許を得ることができる。(国家試験には実技試験はふくまれていない。)国家試験合格後、さらに教員養成科において二年間の修業をすれば、鍼灸学校において教壇に立つ資格が与えられる。これが教員資格だ。
制度上、言ってしまえば、鍼灸専門学校三年間プラス教員養成科二年間の計五年間で、教員資格が得られるのである。たとえば十八歳で高校を卒業し、その後五年経った二十三歳で実際に鍼灸専門学校で教壇に立って実技指導ができる訳だ。金と時間さえ費やせば人を治した経験がなくたって「実技」を教えることができる。
専門学校在学中は無資格なので、言うまでもなく臨床に携わることができないから、教員養成科の二年間でしか実際の治療というのはできない。しかも学業の傍らに治療するのだから十分な臨床経験が積めるとも言い難いだろう。しかし制度上は、実技指導ができるのである。
しかし伝統医療においていや医療に限らず職人などの世界では、伝承というものは、普通、二三十年は経験を積んだ師匠から技を受け継ぐものであり、決して理論だけを頭に入れた評論家から受け継ぐものではない。
この学校は、そういう意味において、本当の技術を教える学校であったから、経験豊富な臨床家を講師に招いて実技指導にあたらせていた。ベテランの臨床家というのは技を身につけるのに必死であるから、教員養成科なんかに行っている場合ではない。

田村隆一は『教養』において、こんなことを書いている。
教養、つまりcultureには、「耕す」という意味があるんだ。時間がかかるんだよ、教養は。五、六年で教養人なんて、みんなニセ者だよ。そんなやつらの話は信用しちゃいけない。全部受け売りさ。本当の教養人とは、いろんな訓練をうけたスペシャリストのことなんだ。昔の職人の世界は、その典型だな。
そして岡本太郎は、『東大幼稚園の母親たちーー教育制度』においてこう書いた。
まことに馬鹿馬鹿しいのは、今の大学での勉強が実社会にはほとんど役に立たないことだ。(中略ー引用者)国として、個人として、無駄なエネルギーと時間だ。お義理の勉強で、ただ卒業証書、つまり社会的身分を買うだけの話である。
(中略ー引用者)
受験勉強など一度パスすれば忘れてしまう。誰でもの経験だ。あれはただの暗記であり、極端に言えばオウムの人真似。頭のよさや、能力、まして人間的本質とは何の関係もない。
自分にとって非本質的なことを憶えるというのは、屈辱的だ。俗なことだ。コマッチャクレた凡庸さがなければならない。試験する方にいわせれば、誰だってやるのだから、そんな一応の線も越えられないのは、よほどの天才か馬鹿だというわけだろうか。


鍼灸師を育てるために、それなりの医学的知識が必要だということは理解できる。しかしまた、それを教えられるだけの人材を育てるシステムのために、実技教育までもが頭の中の世界になってしまうというのは、伝承医学という観点から見れば本末転倒だろう。
毎日新聞の記事も、「無資格者が実技指導」という見出しを大きく打って報道している。この「無資格」という言葉の裏に隠された伝承医学の意味を本当にこの記事を書いた記者(佐々木洋さん)が理解しているとは、到底思えない。この「資格」こそが意味をなしていないのだから。意味をなしていないどころか、これは鍼灸を破滅させる制度でしかない。
なんでもかんでもこの制度に当てはめてしまうことが問題だと、私は思うのだ。この場合、知識を持った鍼灸師を育てることが、教員養成の「目的」だろう。しかし実技に関しては何も問われない試験をパスした人しか実技指導を行えないという「制度」。そして制度から外れているものを排除する行政。さらに制度イコール正という前提を元に記事を書く新聞記者。だいたい新聞も一定の目的のために発行されるのだから、そして記者は一定の目的のために記事を書くのだから、その目的を含んだ視点から離れて記事を書くことは難しい。主観をすてて記事は書けない。そういう意味では新聞だって大きなチラシの裏側に過ぎないのかもしれない。
制度から外れるならなんでも悪だというのなら交番に併設して裁判所でも作ればいい。たとえば、未成年者の飲酒にしろ、それが悪いことだという理由はあるのだろうか。フランスでは十六歳でも飲酒できて、日本ではいけない。悪いことだと言われる。しかし二つの国の違いというのは、法律でしかない。そしてその法律というのは、「未成年者の飲酒が健康に悪影響を及ぼす恐れがあるから」という理由からであり、決して殺人のように、倫理や秩序を理由に作られたものではない。

この目的と制度の逆転、そして制度から生み出される価値観のアンバランスが今回の「事件」を生んだと思える。制度がなんと規定していようと、本質は別にある。本質は、解説書にも新聞記事にも法律の条文にもない。本質は、この場合、学校で必死に勉強する生徒や伝承しようとする先生のあいだにあるのだ。

本質を見なければいけない。これはfacebookの一連の話にも関わることだ。幻影の幸せで満足してはいけないのと同じように、たんなる法律の条文のために将来のある学生が学ぶ機会が奪われてはならない。
日本でこんなことがある一方で、海外では盛んに鍼灸が取り入れられているし、研究にも多額の資金が出されている。ひとえに医療をよくするためだ。鍼は人件費と道具以外にほとんど費用の掛からない医学であるから、エビデンスさえ存在すれば積極的に取り入れられる。一方で日本では現代医療のあとにくる二番目の選択肢にすぎない。
しかし本当の目的は、病気を治すと言うことだ。これが本質。だから積極的に政府が東洋医学を取り入れている諸外国の方が患者が満足するだろう。ドイツなどがその典型だ。

私が今回の事件で学んだのは本質をみるということだ。本来の目的、本当の原因。前に述べた標と本でいえば、本を理解するということ。そして本質が伴っていれば、成功への道は開けるということだ。コンピュータの黎明期からその可能性を信じて進み続けた孫正義やビル・ゲイツ、ビジネスの本質を見抜いた柳井正、がそうであったように。
今のエジプトの「革命」を見ていても、同じことが言えると思う。このことはあまり勉強していないから多くは話せないが、でも「革命」は周辺諸国にまで波及している。「民主化」という大きな目標が掲げられているけれども、民主化は政治や生活をよくするための手段であって目的ではない。ただ「民主化」という大義名分だけをアテにした第二、第三の「革命」であるならば、たとえ民主化が達成されたとしてもその将来は暗い。
ちょうど日本の民主党が「政権交代」という大義を掲げて、国民もそれにつられて政権を選んだが今の現実があるように。政権交代という手段だけみていても、何のための政権交代なのか、その本来の目的の為にどういったアプローチができるのか、という本質がしっかり整っていなければ、成功しない。
facebookは確かに便利なツールだ。旅先で出会った人とも、連絡を取り合うことができる。だけど、SNSによる幻影の幸せに依存してはならない。ネットワークによる自己陶酔に浸ってはならない。便利な情報交換の道具ではあるけれど、それに依存して、実際の相手の顔を見て行う会話と同一視してはならない。コミュニケーションの本質というのは別にあり、本質のないものに依存してしまっては、間違った方向に進んでしまうだろうから。たとえばyoutubeの動画にコメントをつけるなら、それは友達にCDを貸して、これいいよ、聴きなよ、程度の意識にとどめておく。あらゆる感情をオンラインで発信してしまうと、自分の感情を放っておけずに常に発散しなくてはならなくなってしまうだろう。
facebookがこれほどまで大きくなったが、本質を欠いている以上、今後なんらかのトラブルに巻き込まれるか何かで衰退の一途を辿るだろう。エジプトの「革命」においては良い役割を果たしたかもしれないが、今後まだ肥大化するであろうこの会社がもっと大きな問題を抱えたとき、果たしてそれに太刀打ちできるだけの方向性を持っている会社なのかどうかを問いたい。

本質について話してきたが、本質は決して真理ではない。同様に本質というのは科学的根拠でもない。なぜなら科学というのは、常に未来の新しい科学によって否定される可能性を持っているからであり、解説が伴うからである。解説には視座が必要だ。しかし「エゴセントリック・プリディカメント」というものがある。鶴見俊輔によれば、「誰も、自分中心の視座から世界を見る状況からはなれることはむずかしい」という意味だそうだ。これでは本質を理解する根底の本質が揺らいでしまう。
本来の目的、原因と実際の過程や現状を正しく見極め理解し、また自分も正しい本質を伴う行動をすること。それが今回の事件から学んだことだ。どこが根でどこが幹で、どこが枝でどこが葉なのか、またその木はどこに生えているのか。本質を見極める目を持つことが求められている。これから日本は衰退する。間違いなく衰退する。しかし本質を把握できる目さえあれば、乗り越えられるのではないかと、私は思う。そして、その目をもって国が動かされるのであれば、日本と、日本人の心はふたたび豊かさを取り戻せるだろう。
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by s-a-udade | 2011-02-16 16:49 | 日常

お詫び

ゆうべの記事は後半部はとくに、眠い目を擦りながら書いたからなのか、一部飛躍していたり、指示語が多すぎたり、それいぜんに文体が途中で変わっていて駄目ですね。加筆訂正しなければなりません。


最近は毎日学校が終わると花園神社に行っています。梅の花が、少し、咲きはじめています。春はもうすぐそこに来ています。
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by s-a-udade | 2011-02-16 13:48 | 日常

世界の巨大なチラシの裏側(facebookをちょっと使ってみて思うこと)

子供の頃、チラシの裏に落書きするのが好きだった。とは言っても絵を描くのが全くの苦手なので、勝手な言葉ばかりかいていた記憶がある。

中学校に入ってギターを始めた。心のわだかまりはギターで発散した。下手くそだったけど、叫ぶように歌った。高校に入ってもギターを弾き続けた。ギタリストになりたかった。そのためにNYにまで行った。
あの頃、暇さえあればギターばかり弾いていた。それだけ発散できていたんだろう。あらゆる物は自分の中だけでほとんど解決していたから、精神的に自立できていたんだとおもう。
小説を書き始めたのもその頃だった。書きたいことはたくさんあった。書きたい、という意欲だけが空回りして、ろくに書き上げられなかったし、内容だって文章だって稚拙だった。それでも、書いた。たまに書き上げては、文芸雑誌の新人賞に応募した。一次選考すら通らなかったけれど、それでよかった。
友達なんていなかった。高校に入って一年間は、思春期で家族とも話さなかったが、友達と話すことなんてそれよりも少なかった。一言も喋らずに家路につくことなんて珍しくもなかった。
それでも精神衛生的に無事でいられたのは、音楽や文学があったからだろう。
今ではその二つに加えて、写真や短歌などの芸術で自己表現に励んでいる。つい最近まで、発表の場は写真展とか、歌会とか、その程度の物だった。気軽に第三者が見られるものではなくて、同じ趣味の仲間同士、あるいはごく近しい間の人間関係だけでほとんど完結してしまうものだった。表現する自分と、鑑賞する相手と、それぞれの顔が見えた。それは一対一のコミュニケーションであって、決して自分中心の視座から放射状に無差別的に投げられたものではなかった。

『アサッテの人』で芥川賞を受賞した諏訪哲史氏は、三年前に行われた「文學界」誌上の座談会で、こう発言している。
五十年の間に、日本では近代文学が死んだなんて言われ(中略ー引用者)、少なくとも日本においては、二〇〇八年現在、ちょっと暴論かもしれませんが、「読者」が死んでしまったんじゃないかという気持ちが僕にはあります。
(中略ー引用者)
僕が最後に考えたのは、この先、自分だけが読みたい小説を万人が自分自身の手で書いていくという時代……「国民総オナニズム時代」が来るかもしれない、ということです。(中略ー引用者)自分が書いたものしか読みたくない、自分が書いている現在がこの世でもっとも快い読書時間だという自慰の時代ですね。この書くことが即読むことであるという事態は、一人カラオケに酷似していると思います。歌う(書く)イコール聴く(読む)というある種の自己陶酔で、もう起きてることなんじゃないでしょうか。
作家が作家たりうるのは、こうした書くことの恍惚から距離をとって、自分の手で書かれたものに対して別個の醒めた目でそれを読み返して、自己批評、自己批判することができるからだと思うんです。


ブログを始めとする個人主体のメディア、あるいはSNSによって相互発信されている情報膨大な数のメッセージの多くが、「かけがえのない私がここにいるって、光を発したいんですよ(上原隆『雨の日と月曜日は』)」。そんなことを語っているように見える
あるいはそこから発信されている情報ーー発信している本人は、それらを芸術と呼ぶかもしれないーーは、自分の作品、思い、あるいは自分自身の価値を誰かに認めて貰うために、発しているようにも見える。

三浦雅士は『批評、または私という現象』でこう書いている。
「思考の起点を自己におくのは、したがって一つの転倒である。むろん人間は転倒から考えはじめるほかない存在であるといえるだろう。しかい、自己を自己として意識すること自体、すなわち自己という現象を生きること自体がそのまま社会的なことであるという事実を忘れてはならない」

その先にある、SNSにおける人間関係を適切に分析しているのが小池龍之介だ。『考えない練習』にこう書いている。
「コメントを書いてくれているかすぐわかるので、誰かに確実に見てもらえていて、受け入れられている、幸せだ、という幻影を味わうことができます。そのため、SNSに参加する人の数は、ほんの一、二年の間に爆発的に増大しました。
しかし、それを得るためには、自分も友達の日記を読んで、コメントを返さなくてはいけないという暗黙裡の交換条件がつきます。
登録友達の数が増えれば、何となく友達が増えたような錯覚に陥りますが、その数が多ければ多いほど、自分の負担も増えることになります。
自分も日記をつけないといけない、さらに誰かの日記をきちんと読んでコメントをつけなくてはいけない。しかも、相手の書いていることが、自分に全く興味のないことでも、「興味がない」という本音は書けないので自分の気持ちに嘘をつくはめになり(後略ー引用者)」


そうやって近年発達しているそれらのツールを使ったとしても、そこから得られる幸せを小池氏は「幻影」だと言い切りました。単に自分の幸せを(しかしそれは幻影だが)味わうためにほめられているにすぎないのだから。
歌会に行くと、歌については鋭い指摘がなされます。そうして上達するものです。あるいは私は喫茶店で写真展を開くので、一般のお客さんも来ますが、いい写真にはそういった方からもお褒めの言葉をいただきますし、反応を見ていると、写真に対しての興味や感想をうかがい知ることができます。そういう状況の中で笑顔でお褒めの言葉をいただいたときというのは、この上ない幸せです。
でもネットで発表したからといって、必ずしも本当の感想が得られる訳ではない。諏訪氏のいう一人カラオケに似た恍惚プラス、他人からの評価による幸せ(しかし幻影です)。だから一時的な幸福しか得られない。写真や何かを発表したところで、腕が上がる訳でもなんでもないのです。
これは前に述べた標と本の話に繋がります。東洋医学の疾病観からみれば、標を治したところで、本を治さなければ、また同じ症状が起こります。同様に、ネット上でも、褒められても褒められ続けなければ満足することはないでしょう。肩たたきしたって、一週間後にはもう戻っているのと一緒です。

真木悠介『自我の起源』にはこう書いてあります。
「個体を自己目的として立ててみるかぎり、その生きることの『目的』はただ歓喜を経験することにある。そしてこの歓喜のすべては、同種や異種の他者たちの性や生殖の道具とし対象としメディアとし自己を放下することにしかないことをみてきた。性がそうであり、ジャンヌ・ダルクがそうでり、マザー・テレサがそうであり、<花の下にて春死なむ>という自己肥料化がそうである」

ただ自分を喜ばせるために、人は自分を発信するのでしょう。そうして自己陶酔を得ます。
ありがたいことに(そうにちがいない)、現代のこの飽食の世界には、自分を喜ばせてくれるツールが、一生かけても足りないくらい存在しています。だからずっと、目の前の喜びだけを追い続けていたら、それだけで充実したまま人生を終えることができるのでしょう。
でも、たとえば肩こりの原因がストレス、姿勢、荷物、その他にたくさんあるだろうけどそれら原因を特定させずに、ずっと肩たたきマシンみたいなもので肩こりをとり続けているような人生ってどうなんでしょう。
本質を見なければいけない。本質は、あるいは本音は、SNSにも、ブログにも、個人のホームページにもない。本質は、いま、ここ、にある。人間と人間が互いの顔を見てコミュニケーションする、そこに存在するのだ。


私もいずれこのブログをやめようと思う。でもここでやめてしまったら、このますますオンライン化していく社会に対する戦いも、途中で終わってしまうことになる。ある程度の成果を残すまで、このブログは続けます。写真や短歌はそのためのつなぎであって、読者を釣るえさでもあります。きっと。
人間の生き方を変える革命家になりたい。ゲバラは生き方の模範だったんだ。

長くなりましたが、読んでいただいてありがとうございました。
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by s-a-udade | 2011-02-16 01:14 | 日常

喫茶店日和

テスト前なのに勉強せず、喫茶店に入り浸っていました。

新宿に喫茶店はいっぱいあるけれど、ちゃんとした豆を扱っている喫茶店っていうのはなかなかない。私が知る限りでは東口の一店舗のみだ。新宿駅近くでは・・・・。
父の命によりその店の豆を買って帰ったので、自宅でもいれてみるとやっぱりちがう。挽いている段階から香りが全然ちがうんだもの。味も格別だ。焙煎したての豆だと、淹れはじめは炭酸ガスがたくさん出るので新鮮な豆というのは一目でわかる。ちなみにその店の「当日焙煎証明書」には「珈琲豆は生鮮食料品です」と書かれている。さすがだ。
百貨店なんかに出店している店でも、搬送用の袋に詰められた豆をガサッと出しているところを見てしまうともう買う気にはなれない。喫茶店だって、焙煎してから相当たった豆を平気で淹れている店もたくさんある。

その店に出入りし始めて三年、まだそれを超える味と香りの珈琲には出会ったことがない。
そんなわけで、全国の喫茶店店主のみなさん、うちの豆が日本一だと言い切れるのならば是非荒木までご一報ください。
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by s-a-udade | 2011-02-15 17:41 | 日常

犬。

積もってます。明日学校に行くの、大変そうだ。早起きしなきゃ。

勉強なんかしたくないので、うちの愛(?)犬を撮っていました。でもうちの子はカメラには相手をしてくれません。フラッシュにも動じません。やっとの思いで撮れたのがこれです。
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バレンタインだというのに、私は母に命じられて、新宿伊勢丹に入っている京都の和菓子屋、老松の淡雪羹を買いに行きました。今日じゃなくてもよかろうに。淡雪羹6つと、かわいいお皿がセットになって1575円です。老松は割といい値段するけど、見た目も綺麗で味も上品で、贈り物や手みやげに喜ばれそうな感じです。別に老松の回し者なんかじゃありません、ただの個人の感想ですよ。
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by s-a-udade | 2011-02-14 23:05 | 写真