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東京の日常を表現していたブログですが、最近は東洋医学、文化、文明などについて思ったことを書き連ねています。


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タリバーン幹部からマララへの手紙、全訳

はじめに断っておくが私はタリバーンを擁護するわけでもマララを批判するわけでもありません。

もう半年以上前になるが、マララが国連で演説をしたあと、タリバーン幹部からマララへの手紙が公開された。
田中真知さんがブログで細かく解説していたので、そこについては簡単に触れるだけにしておく。

マララを巡る一連の報道にはなんかずっと違和感が伴っていた。

それは結局、西側諸国が推し進めるグローバルな教育のなかで、伝統的なものや宗教的なものが失われていくのではないかという懸念があったからだ。
手紙を書いたアドナンはこのようなことは起きて欲しくなかったとする一方、タリバーンが狙ったのはあなたが教育を進めているからではなく、プロパガンダが問題なのだ、としている。

印象的だったのは
あなたが世界に向けて語りかけている場所、そこは新世界秩序を目指すものだ。しかし旧世界秩序のなにが間違っているというのだ?彼らはグローバルな教育、グローバルな経済、グローバルな軍隊、グローバルな貿易、グローバルな政府、そしてついにはグローバルな宗教まで作り上げようとしている。私が知りたいのはそこに預言的な導きの入り込む余地はあるのかということだ。国連が非人道的や残虐だと言ったイスラームの戒律、イスラームの法の入り込む場所があるのだろうか?
という箇所。
ここで西側諸国(日本も含む)が進めている普遍的な(少なくともそれを目指す)教育に対する危機感が大いに感じられる。
タリバーンの主張が正しいとは言わない。でもグローバルの名の下で失われていく伝統的知識、宗教性への危惧は、文化相対主義を持ち出すまでもないでだろう。日本でも戦後同じ事が起きていたではないか。日本の歴史と言葉だけ教わって、日本の事は殆ど知らない、そんな日本人ばかりではないか。ナショナリズムを推している訳ではない。自分たちが生きている地域の文化や伝統とは何だったのだろう、それを捨てた先に何があるのだろう。永遠にグローバル化が進む訳じゃない、これからむしろローカルに戻っていく時代に、頭だけ西洋人になった日本人に何ができるのだ?
教育がこの上ない人間のエンパワーメントであることは間違いない、それを利用したのが西側諸国の報道であり、マララは言ってみれば西側諸国の被害者でもあるように思える。(もちろんタリバーンの被害者でもある。)

以下は私の訳です、いくつか分からない点があったので、教えて頂ければ幸いです。


**************************************************

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの名のもとに

アドナン・ラシードからマララ・ユスフザイへ

導きに従う全ての者に平和を

マララ・ユスフザイ様

この手紙は個人的に書くものであって、パキスタンのタリバーン運動(Tehreek e Taliban Pakistan)や他の聖戦戦士のグループの意見ではないことを先に述べておく。

私はあなたのことを、バンヌの刑務所の中で、ウルドゥー語のBBCから知った。その時に私はあなたが関わっている反タリバーン運動を辞めるよう忠告するために手紙を書こうと思った。しかし私には住所が分からなくて、どうやってあなたにアプローチしようかと悩んでいたのだ。私はあなたと同じユスフザイ氏族に属し、心から親しみを感じている。
あのとき刑務所で脱獄が起こっていて私は隠れていなければならなかった。あなたが襲撃されたと聞いて私はとてもショックを受けたし、このようなことは起こって欲しくなかった。前もって忠告しておくべきだったと思う。
襲撃がイスラムの法に則っているかどうか、またあなたが殺されるべきかは私には判断しかねるので全てアッラーに任せよう。
ここで私は、先に書いたようにあなたに忠告しておきたい。前もってそうしておくべきだったが、これから同じ事は起こって欲しくはないのだ。

まず最初に、タリバーンがあなたを狙ったのはあなたが学校へ行くからでも、教育を愛しているからでもないことを覚えておいてほしい。そしてタリバーンとムジャーヒディーン(ジハードの為の民兵組織)は男女や子供に関わらず教育に反対してはいないことも忘れないでくれ。タリバーンは、あなたが意図的に彼らを攻撃する文章を書き、彼らが作ろうとしているイスラームに基づく支配を中傷するキャンペーンをしているのだと確信している。
昨日のスピーチであなたはペンは剣よりも尊いと言った。だから彼らはあなたの剣(力)を理由に撃ったのだ。学校や本が理由ではなく。
タリバーンの支配の前も後も、何千もの女の子が学校や大学に通っている。ではなぜあなただけが狙われたか説明できるか?

次に、タリバーンはなぜ学校を爆撃しているのだろう?カイパール・パフトゥンハー州(KPK)や連邦直轄部族地域(FATA)のタリバーンだけでなく、パキスタン軍や辺境警察も関与しているのだ。彼らの目的は同じで、学校が敵のの隠れ家かつ輸送キャンプであるからだ。(基礎知識だがタリバーンとパキスタン軍は敵対関係)
2004年、私は特殊部隊にいて、スフィ・ムハンマドが企てた最初の革命がなぜ失敗したのかを調査していた。その時に辺境警察が学校に駐留し、そこを隠れ家や輸送キャンプとして利用していることを知ったのだ。これは誰の責任なのだろう?
FATAのいくつかの学校が兵舎として使われているのは、やろうと思えば君でも見つけられる。学校のような尊い場所でもそこが死を招く場所だと分かったら、消さなければならない。これがタリバーンのポリシーなのだ。
軍事目的に使われていない学校を爆破することはタリバーンの仕事ではない。どこかの州政府の職務を全うしない役人が資金目的にやっているのだろう。

さて本題の教育に移ろう。あなたが教育を声高に叫んでいるのは素晴らしいことだ。あなたや国連はそのために撃たれたと言っているが、本当の問題はあなたのやっているプロパガンダなのだ。あなたは周囲の要請によって舌を使い訴えている。ペンが剣よりも強いというなら言葉は剣よりも鋭く、剣の負傷者は歓迎されることはあっても言葉の負傷者は決して迎えない。(ここのところhailの意味がよく分からず。hailは神の歓迎ということ?)戦争では言葉はいかなる兵器よりも破壊的だと知っておかなければならない。

インド亜大陸は、イギリスの侵略以前は教育水準も高く、殆ど全ての人が読み書きができたのだ。地元の人間はイギリスの入植者にアラビア語、ヒンディー語、ウルドゥー語、ペルシャ語などを教えていた。ほぼ全てのモスクは学校としても機能していて、ムスリムの皇帝は教育に多大な予算を使っていた。当時は農耕やシルクやジュートの生産に優れていて、服飾から造船までできた。貧困や犯罪、宗教間や文明間の衝突もなかった。教育のシステムが高貴な思想とカリキュラムに基づいていたからだ。

T.B.マコーリー(イギリスの歴史家・政治家)が1835年にイギリス議会に書いた書簡の抜粋を紹介しよう。かれはどのような教育がイスラムの教育システムに変わって取り入れられるべきか書いている。
「我々はまず、我々と何百万もの被統治者を結ぶ階級を作らなければならない。インド人の血と肌を持ちながら、イギリスの趣向や思考、道徳と知識を持った階級を。」
あなたが命がけで守ろうとしている教育システムというのがこれなのだ。国際機関があなたと共に、アジアの血を身体には流しながら頭だけイギリス人、アフリカの肌だが考えだけイギリス人、イギリス人じゃないのに道徳だけイギリス人、そういった人々を次から次へ生み出そうとしている。これがオバマを、大量殺戮を、あなたの理想を生んだ教育だというのでしょう?
なぜ彼らは全ての人間をイギリス人にしようとするのだ?それはイギリス人が誠実な支持者であり、ユダヤの奴隷だからだ。あなたはインドにイギリス式教育を作ったと言われるサイド・アフメド・カーンがフリーメイソンだということを知っているだろうか。

あなたは教師とペンと本さえあれば世界を変えられると言った。私もそれには同意する。しかしどのような教師、どのようなペン、どのような本なのだ? 預言者ムハンマドによって私は教師として世に送られ、教科書にコーランが送られた。崇高で敬虔な教師の預言的なカリキュラムが世界を変えられるのであって、悪魔的なものや不信心者のカリキュラムではないのだ。
あなたは、ジャーナリストが「なぜタリバーンはこの教育を恐れるのですか」と生徒に訊かれ、「本に何が書いてあるかを知らないからだ」と答えた例を挙げた。あなたと全世界に対して、なぜ彼らがアッラーの本を恐れるのかと言えばそれが何かを彼らは知らないからだ、と言っておく。

タリバーンはアッラーの本に書いてあることを求め、国連は人間が作った本に書いてあることを求める。我々はコーランによって全世界の人々をその創造主と結びつけ、国連は僅かな悪の創造主のために全世界を奴隷にする。

あなたは不公平な国際機関のステージで正義と平等を求めた。あそこはたった5つの不正な国が拒否権を持ち、残りの国々は非力なのだ。周りの国がどんなにイスラエルに反対しようとも、1つの拒否権で正義の喉元を脅かすのだ。
あなたが世界に向けて語りかけている場所、そこは新世界秩序を目指すものだ。しかし旧世界秩序のなにが間違っているというのだ?彼らはグローバルな教育、グローバルな経済、グローバルな軍隊、グローバルな貿易、グローバルな政府、そしてついにはグローバルな宗教まで作り上げようとしている。私が知りたいのはそこに預言的な導きの入り込む余地はあるのかということだ。国連が非人道的や残虐だと言ったイスラームの戒律、イスラームの法の入り込む場所があるのだろうか?

あなたはポリオの予防接種のチームへの攻撃のことを言った。それならアメリカのキッシンジャー国務長官が1973年に第三世界の人口を80%まで減らすと言ったことをどう説明するのだ?なぜ断種や優生学的なプログラムが国際機関の主導で進められたというのだ?100万人を超えるムスリムがウズベキスタンで本人の同意なく避妊されたのだ?
バートランド・ラッセルは科学の社会に対する影響についてこう言った。「幼い時期から食事、注射、禁止命令を組み合わせ、政府にとって望ましい思考や性格を作り出す。権力を真剣に批判することは心理的に不可能になるだろう。」これが我々がポリオの予防接種プログラムというのに反対する理由なのだ。

あなたはマララデーが自分の日ではなく、権利の為に声をあげる全ての人々の日だと言った。しかしレイチェル・コリーにそのような日が割り当てられていないのは、(彼女が止めようとしてひき殺された)ブルドーザーがイスラエルのものだったからなのか?アーフィア・シディクの日がないのはアメリカ人が彼女を買ったからなのか?フェザンとファヒームの日がないのは彼らを殺したのがレイモンド・アレン・デイヴィス(CIAのエージェント)だからか?16人の罪なきアフガン女性と子供が死んだのにそんな日がないのは、撃ったのがタリバーンではなくアメリカ兵のロバートベラスだからなのか?
正直に答えて欲しい。もしアメリカの無人機が君を撃ったとしたら、世界はあなたの医学的容態に関心を持っただろうか?あなたは「国の娘」と言われただろうか?メディアは大騒ぎしただろうか?カヤニ将軍が君の元を訪れ、メディアもそれを報道するなんてことがあっただろうか?国連に呼ばれることがあっただろうか?マララの日があっただろうか?

300人以上の罪のない女や子供が無人機によって殺されているが、誰も気にはしない。攻撃するのが高度な教育を受け、非暴力的で平和的なアメリカ人だからだ。

予言者ムハンマドがあなたに与えた慈悲が、同様ににパキスタン軍がFATAとバルチタンでムスリムの血を流すのを辞めるように与えられるように与えられることを願っている。予言者イエスがあなたに与えた慈悲が同様にアメリカ合衆国やNATOが罪のないムスリムの血を流させないようにすることを。仏陀の教えに従う者がビルマとスリランカのムスリムの血を流させないように。ガンジーの教えに従う者がカシミールでの虐殺をやめるように。バチャ・カーン(パキスタンの核兵器技術者)に従う者が、ANP(アワーミー国民党)が五年の政権で非暴力を貫いた様に、特殊部隊が一度も銃を放たなかったように、バチャ・カーンの貫いた非暴力の哲学が、戦闘機と戦車とガンシップの助けの元に達成できるように。

最後にあなたに、郷里に戻ってイスラムと地元の文化を学び、近くの女性メドルサ(神学校)に入り、コーランを学び、イスラムと同胞の苦しみのためにペンを持ち、少数のエリートが新世界秩序の名の下に世界中を奴隷化しようとしていくことを糾弾してほしい。

世界の創造者アッラーを讃えて。


原文はここから。
# by s-a-udade | 2014-02-11 22:52 | その他

何のために学ぶのか?

学校が教えてくれた一番のことは、学校は何も教えてくれないということだったと思う。

でも、同時に自分から目的意識や意欲を持って取り組めば学校の中で自分の求める以上に学ぶこともできると思う。たぶん。

私は一応自分の意思と資金で大学に入って勉強したかったので、たまに口開けて待ってるだけの癖に学費高いのにとかぼやいてる奴とか見るとこいつ頭おかしいんじゃねえかとか思うし、いつも後ろの方で授業聴いててテスト前になると焦り出す奴とか見るとわりと猛烈に腹が立つ。(専門学校時代の自分に思い当たる節があるので偉そうなことは言えないけどね。) 同様にとりあえず大学入って評価のためにとか目的意識もなくただ勉強やってるだけの奴も終わってると思うけど。

でも幼稚園から高校まで勉強すること自体が目的になってる中で、自分の勉強する意義を見つけるのはむつかしいとおもうし、とにかく大学行かないと生活とか就職とかの面で不自由だからという心配も仕方ないと思う。
学校って工場みたいなもので、子供を入れると社会が求める形に成形して送り出す。個性とかは求められていなくて、均質さとか従順さが目標。誰かが作った<自由>の枠の中で放牧されてるみたいな。
そもそも子供とは育てるものなのか?子供は自ら育とうとするのではないのか。その可能性の芽を教育が摘んでしまっているように見える。つまらない枠の中に無理矢理子供達を押し込めている。

自分が何をやりたいのか、っていう簡単な問に答えられなければちょっとまずいと思うんだけど、それを見つけさせてあげられない学校もおかしい。子供達の世界から出たことがない教師が教壇に立っててさ。たとえば法学部に行って政治を勉強したい、とか、嘘つくなよって思うもん。公立図書館で勉強するのと何が違うの。
自分の夢を訊かれた時、職業でしか答えられないのはさみしい。
自分の夢を一つしか答えられないのもさみしい。

でもさ、たとえば買い物一つ見たってもう八百屋のおっちゃんに旬の野菜の話聞きながら献立考えることもなければ魚屋のおっちゃんにどうやって味付けしたら美味しいよとか教えて貰うなんてことはない。社会のなかで自分たちがどうやって人と関わってて自分がどの立ち位置にいるのかなんて全然見えてこない。そんな中で自分の夢を探せる訳ないんじゃないか。

そうなると本の中で見かけたアジアやアフリカの貧困層の子供達になにかしたいみたいな、妙に嘘くさい話になるのも仕方ないような。もちろんそれも立派な話なんだけど、社会貢献とかは後でいいんじゃないか。学生のうちに好きなことやって自分の軸を作って行く方が先ではないのか。それでボランティアやった話を就活でして良い経験したような気になってるのはだいぶ順番が違うんじゃないかと思う。
海外行って何かがしたい、とか、何かって何よ。そういうの鶏が先か卵が先かみたいな話だけど。

大学なんてタコツボみたいでオタクばっかり育っていくじゃないですか。タコツボの中にいたらジェネラルな発想は出てこない。ましてリベラルアーツやってる訳でもない日本の大学で、卒業したら忘れてしまう知識ばっかりつけて。でも日本の社会はオタク:スペシャリストばかりに頼りすぎなんじゃないか。だから原発事故みたいなのが起きる(もちろんそれだけが原因じゃない)。
一つのことに没頭して周りが見えてないアホばっかりの世界に光をもたらすのがジェネラリストであってほしい。反省も思いやりもない科学が戦争を悲惨にし地球を住みづらい場所に変えてしまったが、生と行動に関与する生命哲学の確立して新しい時代を作っていく、そんな地球全体の教育が求められているように思います。
# by s-a-udade | 2013-08-19 09:15 | 日常

荒木がやりたいこととは何なのか、それに対する一つの答え

"You should be the change you want to see in the world"
「自分が見たいと思う世界の変化に、あなた自身がなりなさい」マハトマ・ガンディー

自分のステータスを初対面の人に説明するのが難しい。面倒である。(だから合コンが嫌い)
だいたい「専門学校出たけど、もうちょい勉強したかったから大学入り直して今一年生だよ」と適当に誤魔化しているが、専門で何勉強してたの、って訊かれると鍼灸、あのっ、はりきゅうを....で大学で何勉強するの?何学部?教養学部で.....まぁまだ専攻決めてないんだけど...一応人類学とか哲学、東洋哲学とか興味あるかなぁ...で将来は何したいの?
と、非常に面倒なのである。大体訊いた方も適当に切り上げたいのだろうしどうしてもちょっとは真面目な話するフンイキになってしまうので初っぱなからそれじゃやってらんないのである。
教養学部と言ってんのに「先生になるの?」とか言われたらなおさら面倒である。大学名言ったら神父さんに....もういいや。
合コンに行ったってナウなヤングたちはそんなことに興味ないので別次元の人だと思われてそこで試合終了なんだもの。

まあでもともかく、私は友達には恵まれている(と思う)し、ある程度の年齢以上の人なら相手に余裕もあるし私も話しやすいので、ちゃんと説明しようとする。
けど上手くまとまらないんだなぁ。


高校を辞めた理由をいま話しても全部後付けになる気がする。
けど大学に行くなんてくだらないと思ってた、偏差値で大学決めて、なにか勉強したいことがあるわけでもないのにそれっぽい理由付けて、みんな馬鹿じゃないの、と思ってたけどまわりはみんな大学に行くために真面目に勉強してるし、そういう場所は居づらかった。
そもそも大学出て社会に出てそれなりに出世して、そういうのがぜんぶ無意味に思えた、人生にはもっと大切なモノがあるって。それに気付かせてくれたのは小笠原やそこで出会った仲間だった。旅が教えてくれたことは学校が教えてくれたことよりずっと面白くて実用的だった。そんときは音楽に没頭していたので、単純に音楽をやりたいな、とか思ってた。

だからといって高校を辞めてもやることもないし、しばらくする内にミュージシャンになりたいとかいう夢もなんか違うぞって事に気付いて帰国した自分。

そんなときに旅先で出会ったのは鍼灸であり、東洋医学だった。

みんなが上を見て歩いてる世界で息が詰まるけど、そうじゃない生き方ってあるんじゃないの、って教えてくれた。東洋医学は東洋哲学とくに老荘思想と関わりが深いので。
社会に出てそれなりに出世して生きるっていうなんかファンタジーみたいなRPGみたいな不毛な生き方に閉塞感を感じていた、資本主義も民主主義も信じられないし、どこかで東洋医学が自分の生き方を変えてくれる、できればそれが人類みんなの閉塞感を打ち破るものであってほしい、と思った。だから鍼灸をやろうと思った。

私の期待は半分は当たったし、半分は外れた。
要するに鍼灸は自分の生き方を変えた、それは素晴らしい出会いだったと思う。一方で日本の鍼灸界はそれはもう大変な問題をいろいろ抱えている。だいたいが東洋哲学と一緒になってる東洋医学をやってる人の方が少ないし、社会的に認知されるためにはそういうファジーなところを切り離して考えなきゃいけない(と鍼灸業界の人は一般に考えてる)。そうなると鍼灸界全体を変えていかなきゃいけない。もっと言えば中国は自国の鍼灸医学を世界に広めようとしているが日本の立場もある(日本と中国の鍼灸はぜんぜん違うから)。
日本の多くの鍼灸師は鍼灸を西洋医学に認めて貰うために頑張っているけど、私は東洋医学という素晴らしい医学を主体に日本の医学をひっくり返したいのだ。

それから専門学校在学中に、もしかしたら資本主義も物質文明もそう長くは続かないんじゃないか、という考えに出会う。池澤夏樹や宮澤賢治の影響だけども。そのへんはこの記事参照。となると生きてく上で何が大切なのかってことを、人類みんなで考えなきゃいけないんじゃないか、と思うようになった。
ようするに社会の変革が必要だって。確かにみんなが豊かになったし便利になった、でもそれは幸せとは全然ちがうことじゃないの?

だいたい今の社会がみんなが専門的になりすぎてオタクになってる、自分の研究分野以外に視点がむかない。タコツボの中では絶対にジェネラルな視点は生まれない。
変えていくためにはジェネラリストにならなきゃいけない。そのためのリベラルアーツなんだ。

というわけで、ざっと、本当に簡単にだけど自分の今やろうとしていることの背景を書いてみた。
まとめると荒木がやりたいのは、東洋医学や日本鍼灸を広めて医療を変えていくこと、成長とか経済とか効率ばかり見ている社会を変えていくこと。国民みんなで貧しくなろうよ。とか、パーマカルチャーとか。老荘思想もそうだし。

東洋思想はひとつの指標なんだが、最初に引用したガンディーの言葉に立ち返ると、自分がその実践者でなきゃいけない。だから鍼灸をやってるし、そこで関わった人からちょっとずつ変えていきたい。
無謀な試みだけどね。
私はゲバラを愛しているが、彼の晩年は(見方によっては)悲惨だった。ボリビアで社会のために戦ったが理解されずに惨めな戦いをしていた。でも兵士として戦い続ける彼を私は英雄だと思うし、自分もそうありたいと思う。
ゲバラの言葉が座右の銘である。
Hasta la victoria siempre.(常に勝利に向かって)
# by s-a-udade | 2013-08-18 23:31 | 日常

私と小笠原(2)

島に帰ってました。
というと、荒木って小笠原出身なの?と聞かれてしまうのだけど、荒木は奈良県橿原市出身です。
でも、小笠原には、行くと言うよりも、帰るという方がしっくりくる。私にとって、小笠原は帰るべき場所だから。

初めて小笠原に行ったのは、2008年、私が17歳の夏でした。そのときは高校三年生だった。
といっても、ほとんど学校を休みがちになっていた頃で、学校をサボっていったのだけど。
私が通っていた都立戸山高校は、いちおう名前だけは伝統校だし、都立とはいえ進学にも結構力を入れている学校だった。まぁ私も入学してしばらくは、戸山生らしく優等生っぽいことしてたわけです。
でもだんだん、まわりが受験モードになっていくにつれて、自分のなかでどんどん疑問が膨らんでいきました。
つまりいい大学に行くこと、勉強が出来る子になること、そういうことを、自分はしたいんだろうか?
なんか、違う気がした。偏差値で人間が測られて、それで大学に振り分けられて、それが人間の判断基準であるかのような。自分はそういう数字とか学歴で測らなくても、荒木駿その人なのだし。
そんなわけで、お受験の為にお勉強するのも馬鹿らしくなってきた。生きる事の本質と全然関係ないことを頭の中に詰め込んで、褒められているような人生を選びたくない。そんな訳で、大学には行くまいと決めた。

その時はギターに熱中して、時間さえあればギターを弾いていた。ギターに支えられて生きていたようなもんだ。ギターを本格的にやりたかった。
でも、それも結構いいところまで行って、やっぱりこれは違うと思ったんだ。実際NYに一ヶ月ほどいたのだが、仕事にして生きるべきものじゃない。そう感じた。
夢を失ったわけだ。

他にもちょっと、人との関わりのことで、いろいろあって、かなり落ち込んでいた時期だった。

そんなとき、ふと小笠原に行こう、と思った。

親には何も言わなかった。電波が届かなくなる直前に、短いメッセージだけを残して、旅だった。小さな鞄一つで。

船旅を終えて僕が出会ったのは、驚くほど青い海、美しい空、そしてなにより、美しい心を持った人々だった。ついたその日から、地元の人と外で飲んだくれていた。高校生なのに。
泊まったところもユースだったので、友達もたくさんできて、みんなかわいがってくれて、人との出会いにすごく恵まれていたとおもう。
とにかく見るものすべてが素晴らしかった。
これはきっと、島に呼ばれたんだと思った。本当に。
小笠原が自分に生きる希望を与えてくれた。

最初の滞在は、友達にお金を借りつつ、一ヶ月ほどでキャンセル待ちに空きが出ず、泣く泣く帰った。
親には叱られたり、いろんな人に迷惑を掛けたけれど、そんなことで気にするような以前の私ではなかった。
内地でなんとか、自分に忠実に生きていこう。誰がなんと言おうと、俺は俺なのだし。そう思えるようになった。


そんなことがあってから、二年間小笠原に通い詰めた。一階の滞在が、1~2ヶ月程度と、かなりの長期滞在。過ごし方は、基本的にのんびりして、気が向いたらドルフィンスイムに行ったり山に植物を見に行ったりする。人との出会いが大切。そう思っていた。
そんなことをしているうちに、東洋医学に出会ったりして。

今の学校に入ってからは、休みには海外に行った。小笠原は、いったんお休みして。
でも、どこにいても、やっぱり小笠原が恋しかった。泊まっていたユースの部屋とか、毎日休んでいた浜辺とか、飲み屋のカウンターとか。そこで暮らす人々。
小笠原はずっと、私にとってのふるさとだった。
こういう言い方が許されるなら、魂が生き返った場所。

学生最後の夏休みということで、今年の夏休み、二年ぶりくらいに小笠原に帰りました。
今回は今までと比べれば非常に短い旅だったけど、
懐かしい人と再会できたし、あたらしく出会った人とも、本当に仲良くなれて、楽しくて毎日が充実していた。
ふるさとに帰って良かった。
内地の生活はせわしなくて大変だけど、自分にとって小笠原という帰る場所があって。

小笠原の星空の下、大いなる自然のなかで感じたことは、
自分なんか本当にちっぽけな存在で、
天地宇宙のつながりのなかで、もっともっと大きな力に生かされていて。
自然の人間が対峙しているわけでもないし、人間が自然を管理することなんかできなくて。
自然への畏敬、といったら語弊があるが、大きな宇宙、大いなる自然の一部として自分がひとつのちいさな存在。
でもそのちいさな存在が、ここでまわりの人々と一緒になることで、輝いている。

自分の勝手な願いを押しつけるんじゃなくて、
この天地のつながりのなかで生きている自分が、
そのサイクルのなかで生きている。そう全身で感じることが、祈りであり、瞑想(meditation)である、そんなことを感じたのです。

黄帝内経の思想である、自然、天地宇宙のつながりのままに生きる事は、本来そんなにむずかしいことじゃなかったはず。
この物質文明があまりに生命の本質から遠ざかって肥大したから、そうやって生きるのが難しいように見えるだけで。


話がだんだんずれてしまったが、小笠原に帰って、もういちど生き返ったような気分です。
いつもの忙しない生活が始まったけど、心はすっきりしているし、充実しています。
命の洗濯をしてきた気分。

またかならず、ふるさとには帰る。それまで、たいへんだけど、がんばってみます。
# by s-a-udade | 2012-08-27 23:52 | 日常

科学的思考 について ("見つからない"は"存在しない"の証明にはならない意味)

このブログ、TokyoSceneryなのに最近は文書ばかりですね。。。。。
文系の私がこんなこと書くのはアレなんですけど、今日は「科学的思考」についてです。

先日、ネットでこんな記事を見つけた。
「人魚は存在しません」、米政府機関が公式サイトで(AFP=時事)
すこし気になったので米国立海洋局(NOAA)のホームページを見てみたらこんな記事だった。
Are mermaids real?
ここに書いている人魚の存在に関する文章は以下の一文のみ。
No evidence of aquatic humanoids has ever been found.
つまり「海中の人類が存在する証拠は見つかっていない。」ということ。
NOAAが表明しているのは人魚の存在を否定しているのではなく、人魚の存在を示す有効な証拠がないだけである。
つまり日本語の翻訳の方の記事は誤訳。AFP時事がこんないい加減な記事を書くとは思えないんだけど。。。。あるいは話題作りのために敢えて誤訳してるのかもしれないが。。。

前にも書いたかもしれないけど、科学において否定を証明するっていうのは非常にむづかしい。
科学的にありえないということを証明するには、科学の理論を完全に打ち立てて証明しなければなならない。
簡単に言えば、家の中にゴキブリがいないことを証明するには、「探したけど見つからなかった」「今まで見たことがない」では証明にならないということ。

この問題を話すときに思い出すのが、横田めぐみさんの遺骨の話。
北朝鮮政府が「横田めぐみさんの遺骨」だといって渡した骨を日本の三つの研究機関が分析。ふたつの機関は分析不能(1200℃以上で焼いた骨からのDNA検出は困難)だとし、帝京大学の分析の結果ではふたりの別人のDNAが検出された。横田さんのDNAは見つからなかった。
これを理由に日本政府は遺骨を偽物だと判断して、北朝鮮政府を非難した。
しかし、理屈で考えれば遺骨を偽物だと判断する理由にはならないんだな。
帝京大学の分析では、「遺骨の一部から他人のDNAが検出された」ということしかわからない訳だし。遺骨の保存状態によっては他の人の汗などが付着することもおおいにありうる。(遺骨問題を検証した科学誌NATUREによれば焼かれた骨はスポンジのようであり他の物質の吸収を防ぐのはむずかしいという)
日本政府の完全な誤り、だよね。
賢明な読者の諸君は、それが北朝鮮政府を擁護する理由にも、横田さんの遺骨が本物だという理由にもならないということは、お分かりですよね?

だから今回の人魚の記事に限らず、科学的根拠がないとか、証拠がないから否定が証明されたと思われることが多いけど、実際はそうじゃないんですよ。
たとえば「ホメオパシーに科学的根拠はない」というと、あたかもホメオパシーが科学的見地から無効であると捕らえられそうだけど、実際は「ホメオパシーは現在のところ科学的な機序が明らかになっていない」というのとほとんど同じなのであって。。。。
鍼灸も温泉も民間療法もそうだけど、科学的根拠がない、だからダメだって考えはもう捨てませんか。
だいたい、東洋医学が科学なんかに証明できるはずがないんですよ。
「気」の"存在"を否定する人がいるけど、気は本来、概念であって否定も肯定もするものじゃないんだよね。前提条件みたいなもので。本当に簡単に(誤解を恐れずに)言うなら、「気の概念を使ったら鍼灸が非常によく説明できた」みたいなもので。
それを科学に置き換えようとするからアヤシイとか言われるのであって。たぶん気の一部は酸素とかATPとか、免疫の働きであったり、量子力学的ななんらかの動きであったり、なのかもしれないけど、それは科学的な言葉に翻訳はできないでしょう。
寿司は英語でもSushiなのであって。韓国のチヂミはやっぱりチヂミでしょう。それを「韓国のお好み焼きみたいな食べ物」と説明しようとしてもやっぱりなにか違うわけで。気は、やっぱり気なんだよね。

だからCAM(補完代替医療)はときに非科学的だとか、言われてしまうんだけど、そんなことはないんだよね。
科学的な機序が明らかでないものを、イコール非科学的で無価値と捕らえる思考のほうが、実は科学的な考え方をしてないんだよね。
「鍼灸なんて非科学的だ」とか言われたら、言った人の方が科学的な思考をしていないんだから、気にすることはないんだよね。そういう人に限って最後には「ありえない」なんて言葉を使ったりして。感情論、先入観でしかないじゃないか。
まぁ、だからそういう意味で、私は「非科学的」という言葉の意味がよく分からないんだ。非科学的という言葉の方が非科学的じゃないですか。笑

そろそろ科学的根拠がない=無価値・無意味 という思考をやめませんか。科学で明らかになっていないところにこそ、新しい時代を切り開いていく可能性はないのですから。

(その意味でも私は鍼灸を未来の医療だと思っている。東洋医学を西洋医学の言葉で言い換える研究じゃなくて、医学のパラダイムを変えるために、鍼灸界は奮起しなければならないんです)
# by s-a-udade | 2012-07-08 22:20 | 東洋医学