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東京の日常を表現していたブログですが、最近は東洋医学、文化、文明などについて思ったことを書き連ねています。


by s-a-udade

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自由、について

先だって、東洋医学概論の授業で聞いて感銘したこと。

もともとの東洋の思想にあった自由とは、こんにち使われている意味での自由、ではなかった。ということです。
もともと東洋にも自由という言葉があって、それをfreeとかlivertyの訳語として宛てたので、その意味が定着してしまったのだというのです。
さて東洋の自由ですが、松と竹の自由という例えがあって、人間は松を竹よりも尊いと思って、竹に対して松になれなくてかわいそうだとか、松に対して竹じゃなくてよかったねと言うけれど(これはもちろんたとえ話で、決めた価値観に応じて優劣を決めるということ)、自由というのは、竹は竹として、松や人間の言葉など気にせずにまっすぐ生きること、松は松として生きること。だというのです。
東洋には、まず善と悪の区別が少なかった。正と邪というのも輸入された考えなんですね。日本では(中国ではわかりません)正もまた邪であり邪もまた正であるという考えもあったのですが、いずれにしても、善を悪を区別して悲観したりしないのが自由である。背が低くても、高い方がいいという価値観、高くなりたいと思うことなく、自分の今ある姿をありのままに受け入れて素直に生きるというのが自由(=自然)であるというのです。だから自分の今ある姿や、自分の能力を超えて成長したいと思うのは自由じゃないのですね。同時にこれは不自然でもあるというのです。だから背が高くなりたいとか、テストで良い点取りたいとか、野球があいつより上手くなりたいとか、全部不自然なことなんです。
授業の内容としては、この不自然な心が、不自然な身体の使い方を呼び、無理がたたって不自然な身体(=病気)を生む、という方向に進むのでした。

病因論は置いておいて。今の日本は不自由なことばかりだなぁ、と思っているのです。
何がって、たとえば教育。
池澤夏樹『光の指で触れよ』の中で、登場人物がこう言っています。
「私がオーストラリアに行ったときに、土産にちょっとかわいい筆箱を買ってきた。ところがあの子はそれを学校に持っていかないんだ。どうしてだって聞いたら、こういうのは他のお友だちが持っていないからいけないんだと言う。他の子は他の子でおまえはおまえだろと言っても聞かない。
(中略)
学校とは何か? 改めて考えてみると、子供を加工するところという感じが強いんだな。(中略)ファクトリーだよ。子供という粘土のかたまりを入れると、成形して、着色して、熱で硬化させて、均一の製品にする。
(中略)
他の国のことを知っているわけではないが、日本の学校は今もって軍隊モデルから抜け出していないよ。(中略)身体検査だって運動会だって似たようなものだ」

彼は割と急進的な言い方をする人物として書かれていますが、主張は一貫しています。
教育として、社会の仕組みや計算の仕方や先人達の知恵を知っていくことはもちろん重要だが、それを評価する形がテストの点数に集約され、考える過程が無視されていることや、偏差値至上主義がはばかって久しいことなど、明らかに行き過ぎているとしか言いようがない。しかし教育が求めるのは、どんな教科でも点数が取れる人間であって、そういう人間が「いい学校」に行って「いい会社」に行って「出世」する。
岡本太郎は『東大幼稚園の母親たち』でこう書いています。
まことに馬鹿馬鹿しいのは、今の大学での勉強が実社会に出てほとんど役に立たないことだ。一例をあげてみよう。去年の三月に東大法学部を卒業した五百六十六人のうち(中略)ほとんどの人が役人、会社員、銀行員などになって、六法全書なんてケロリと忘れてしまう。帳簿をつけたり、雑務をしたり、そして上役や取引関係とのマージャン、ゴルフに専念するのである。
(中略)
やりたい者が、またやれる者がムダな時間と費用をかけるのは勝手だとしても、こんなシスティムのために本当に勉強したい多くの若者たちがしめ出されたり、また学府の理想が失われてしまうということは社会悪だ。
(中略)
受験勉強など一度パスすれば忘れてしまう。誰でもの経験だ。あれはただの暗記であり、極端にいえばオウムの人真似。頭のよさや、能力、まして人間的本質とは何の関係もない。
自分にとって非本質的なことを憶えるというのは、屈辱的だ。
(中略)
たとえば東大のように八〜九科目もの試験があるのでは、無性格で凡庸な人間しか網の目にかからない。現在の社会の仕組みは、すべて官僚的だから、一人一人の才能、独創性なんて別だん必要ない。むしろ、それは組織内で危険であり邪魔である。サラリーマンはどんどん無性格的に平均化され、部品化させられる。


これほど不自然で不自由なことがあるでしょうか。試験の点数のために努力しても、それは人生を豊かにはしない。自分の人間的本質とは無関係です。しかしそうしなければ社会の中でのけ者にされてしまう。自由はどこにも存在していないように見えます。
そうして作り出された人間は、社会の歯車の一部として働きます。その日本の社会は、あまりにも高密度で高回転です。しかしそれが幸せなのでしょうか。自殺者数が増え社会問題にもなり、経済も発展し続けなければ「幸せ」が続くことはありません。だから常に成長し続けることを求められるし、そのためには人材を「育て」なければなりません。
宮澤賢治の『農民芸術概論要綱』にこうあります。
曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ

近代科学が発展することで「豊かな」暮らしが手に入ったけれども、それがなくても十分に楽しく生きていけたのです。過剰に発展した社会が、結局は福島原発の事故を呼んだのではないですか。
池澤夏樹は雑誌のインタビューで、フランスでの暮らしについてこう言いました。
そんなに全てが高密度で、応答が早くて、便利であったとしても、それは何のためになるのと問い返す。
その努力全体が空回りなんじゃないの?
便利と幸福はぜんぜん違うことではないの?


スーパーマーケット一つとっても、たしかに一つの店で全部の買い物が終わって楽だけれど、商店街の魚屋さんに、どんな魚が旬でどういう料理法をしたら良いか相談したりとか、今度はそれを魚屋のおじさんに美味しかったよと報告したりとか、そういう楽しみが積み重なって生活に色が塗られていくんじゃないかな、と思います。
発達でなんでも手に入る一方で、何かが手に入らなければ理不尽に思うようになってしまった。それがクレーマーやモンスターペアレントを生んでいるのではないかなと私は思います。若者達がこれだけゲームにはまるようになってしまったのも、社会で生きる事がこれほど無味無臭になってしまい、それに満足できなくなっているからではないかな、と思うのです。
私が鍼灸の世界に入ったのも、病院に行って、お医者さんがモニターとキーボードを前に会話し、診療は数分で終わり表面だけ治す治療をしている、その現状はおかしいんじゃないかと思ったからです。それで幸せはやってこない、と思ったのです。治療の対象は少ないけれど、会話をしながら、患者さんと医療者が交流して、自分の力で病気を治していく、それこそが大切な事じゃないかと思い、東洋医学の道を志したのです。
それが、自由であり、自然であると思ったから。

だからといって科学に頼り目まぐるしい速度で発展していく日本の、回転を止めることは難しいと思います。
東日本大震災、大きな被害がありあらゆるものが流されました。今が、再建の時、再考の時ではないか、と私は思うのですが。
by s-a-udade | 2011-09-04 01:39 | 日常